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SIMANTO114の田舎暮らし

★小選挙区制反対!民意の反映される「公選法」を! ★世界から「核兵器と原発」を撤廃させたいね! ★憲法九条を守り、世界へ拡げたいね! ★沖縄から、日本から「米軍基地」をなくしたい!


秋の訪れとスズメバチ

2016/08/31(水)

迷走台風10号が東北に上陸して、またも各地で被害が出ているようですねえ。
被災地の皆さんには、心よりお見舞い申し上げます。

さて、我が家では台風が東北に去った一昨日の夜から、暑かった風が急に涼やかになり、6月以来24時間フル稼働していた我が家のクーラーを久しぶりに止めました。

やはり自然の風はいいですねえ。我が家のすべての窓を開け放ち、秋の気配を虫の音を聞きながらたっぷりと楽しみました。
これで、暑くて休んでいた9月からの卓球を復活できそうです。


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しかし、《好事、魔多し》あるいは《油断大敵》とはよく言ったものです。
近所のKさん宅に怖~いスズメバチの巣を発見しました。

Kさんは、お盆の間2週間ほど来ていましたから、まさかスズメバチが巣を作っているとは、私も、つい監視を怠っていました。

もう結構大きくなっています。《やばいなあ》と思いながら、水道水を勢いよくぶっかけてみたら、出てくるわ、出てくるわ、あの小さな巣穴から、大きなスズメバチが10数匹も飛び出してきて、私を攻撃してきました。

一応私も、対応する準備はしていたので、補虫網を振り回し、何匹か捕らえて踏みつぶしたのですが、蜂もさるもの、私の補虫網のバリヤーの隙間から飛び込んできます。
慌てて、後退しましたが、地面が舗装路でないので、砂で滑ってしまい、こけてしまいました。

痛~っ、左腕の肘をすりむいてしまいました。
本当にねえ。年寄りの冷や水ですねえ。

それでも一応、ハチの巣は棒を使い排除しましたが、スズメバチはまだ巣の周りに飛んでいます。おそらくまた、巣作りにかかるのでしょう。様子を見ながら、少しずつ生体の蜂を捕らえて壊滅させるしか手はありません。
またしばらく、私と蜂の戦いが続きそうです。




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山雀と茗荷と金目鯛とジャコ飯

2016/08/29(月)

我が家は太平洋に面する崖の上にある。
今年はまだ台風の直撃は一度もない。無いが8月に入って、立て続けに台風が太平洋を通過しているので、波が静まる時がない。
ず~っと、ずっと荒波が続いている。
毎晩波の音が聞こえてくる。うるさくて眠れない…と言うほどのものでもない。いや、むしろ子守歌代わりに、よく眠れるのだが、これだけ海が荒れると海産物が少なくなる。
それだけが心配なのである。(笑)

先日も岩に張り付いてる貝類やウミニナ、ウニなど食べたいな…と思い浜に降りてみたが、波が高くて、とても海岸を歩けない状態でした。


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さて、そんな中我が家の庭には、ひょうきんな山雀君が時々群れになって遊びに来る。
この鳥、餌を掌に乗っけて待ってると、平気で人の手に止まりえさをついばむ。とても人懐こい鳥なのです。
私は邪魔臭いのでやらないが、やってる人を何度も見かけている。


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沖を過ぎゆく台風のせいなのか、毎日暑い日が続いていますが、もう秋なんですねえ。
庭の畑では、今年初めての秋茗荷が採れましたよ。


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連れ合いさんが早速、茗荷を入れたシラスジャコ飯を作ってくれました。
シソの葉とすりごまを入れると香りもよく、ついつい食べ過ぎてしまいました。
この秋、またまた太りそうです。(笑)


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そして、ご飯のお供は、初めての金目鯛の干物。
私は海育ちのくせに、実は今まで一度も金目鯛を食べたことがなかったのです。
一度食べてみたいなあ…とつぶやいてみたら、連れ合いさんが買ってきてくれました。

9月からまた、自公政権を追い込むための戦争法廃止の街頭での戦いが復活します。
それまで、しばしの閑を楽しみたいものです。




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土佐の偉人…中江兆民

2016/8/26(金)

土佐の偉人に1911年1月24日、《大逆事件》で処刑された幸徳秋水がいる。
犯罪者として処刑された秋水への世間の批判は根強く、その親族は肩身の狭い思いを最近まで引きずっていた。2000年12月19日、秋水の地元で、中村市議会(現四万十市議会)は秋水の処刑は明らかな《冤罪である》として《幸徳秋水を顕彰する決議》を行った。

幸徳秋水はこの90余年の間、いわゆる大逆事件の首謀者として暗い影を負い続けてきたが、幸徳秋水を始めとする関係者に対し、20世紀最後の年に当たり、我々の義務として正しい理解によってこれを評価し、名誉の回復を諮るべきである。よって中村市議会は郷土の先覚者である幸徳秋水の偉業を讃え顕彰することを決議する。

私は、ここ四万十市へ移住するまで、幸徳秋水については、その名前を記憶するのみであった。
今年、私は《秋水研究会》に入会した。改めて土佐の偉人・秋水について学び始めた。
そして、秋水の師・中江兆民についても学び始めた。

この2人の書籍や関連書籍…さぞや難しかろう…と思っていたのだが、秋水に関連する中江兆民、内村鑑三の本を図書館で借りて読んでみると、これが結構面白いのである。今読んでいる最中であるが、とりあえず兆民に関する記事をwebで拾ってみた。

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中江 兆民(なかえ ちょうみん)

弘化4年11月1日(1847年12月8日) - 明治34年(1901年12月13日)
土佐出身の思想家・政治家。東洋のルソーと呼ばれることで有名。幼名は竹馬、名は篤介。

長崎・江戸でフランス語などを学んだ後、1871年フランスに留学。1874年に帰国後、東京で仏学の私塾「仏蘭西学舎」を開く。

1881年には西園寺公望と共に、東洋最初の日刊紙「東洋自由新聞」を 創刊。主筆として明治政府を攻撃し、民権思想の普及に筆を振るった。翌年、ルソーの『社会契約論』を漢語訳し、出版するなどし、”東洋のルソー”と呼ばれました。

1887年に『三酔人経綸問答』『平民の目さまし』などを出版。民権思想を説くが、保安条例により東京追放となる。翌年兆民は大阪に移り、「東雲(しののめ)新聞」を創刊。

1889年。大日本帝国憲法、衆議院議員選挙法及び貴族院令などが発布され、自由民権家の追放が解かれました。そして第1回衆議院議員に立候補。その地区のトップで兆民は当選します。 しかし、国会土佐派の裏切りに憤慨し、議員を辞職してしまいました。

その後、山林業や鉄道事業に手を出すもいずれも失敗に終わります。

1901年、喉に違和感を覚え病院へ行きますが、そこで余命一年半の喉頭がんとの宣告を受けます。そして、それを知った兆民は『一年有半』、『統一年有半』を執筆。

そして、12月。自宅にてその生涯を終えました。54歳でした。 遺言により、墓はたてず、火葬場で荼毘にふし、その遺骨は兆民の母の墓の隣に埋葬されました。

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http://www.ne.jp/asahi/kaze/kaze/nakae.htmlから抜粋した記事を以下に。

中江兆民は歴史的には日本における最初の唯物論者として、そして又自由党初期の指導的理論家として記憶されている。しかし、一般に彼の名前は軽妙な毒舌家として、或は明治期の代表的な奇行家として知られている。

中江兆民に対する多くの同時代人の評価は「直言の士」という点で一致していた。例えぱ、大石正己は「中江君は実に単刀直入で、思う所を云い、為きんと欲する所を為すという点に於て我邦の絶品であった」と書いているし、後藤象二郎は中江を評して、彼は三国志に出てくる禰衡(でいこう)だと言っていたという。

禰衡は酒興に名をかり、全裸体となって宴席上に踊り出て、権勢並ぶものない曹操を罵倒した人物である。この後藤の批評は中江を知る者の共感を集めたらしく、中江=禰衡論は広く人口に膾炙するところとなっている。

彼は、波乱にみちた騒々しい一生を送ったように見える。だが、先入観を捨てて眺めたら、誰でも彼の生涯全体を貫ぬき流れている基調音の簡潔さや、鬼面人を驚かすその言説の背後にある魂の地平の静けさなどを感じ取ることが出来る。

中江兆民が、理を持って生涯を生き抜く「純理の人」となることができたのは、彼が底辺に生きる庶民との交わりを深め、そこから一種の人道感覚を育てたからだった。留学を終えて帰国するとき、トルコやインドで白人が現地人を虐待する現場を見て、強い憤りを感じたのも、帰国して日本人が部落民やアイヌ人を差別するのを見て激しい怒りを覚えたのもこのためだった。

兆民が生きていた頃の日本は、朝野をあげて富国強兵を目指し、大陸に進出して列強の一員になることを夢見ていた。この時期に兆民は、富国と強兵は矛盾するという至極当たり前な議論を展開している。日本の将来を大国主義ではなく、島国日本に留まって国内を充実させる「小国主義」の方向に向けるべきだと説いているのである。

彼は時の日本人が範としていた先進強国を「英仏虎狼の国」として否定し、スイス・ベルギー・オランダなどの非強兵国を模範としてあげている。その先見性は、実際目を見張るほどなのである。

「一年有半」の出版後、兆民の病状は悪化した。そんななかで彼は次の著作に取りかかるのだ。このときの様子を幸徳秋水は「続一年有半」の序文に次のように書いている。「日本の名著・中江兆民」(中央公論社)には、その口語訳が載っているので、そこから引用してみよう。

「切開した気管の呼吸はたえだえであり、身体は鶴のように痩せているが、ひとたび筆を取れば一潟千里の勢いである。奥さんをはじめみんなが、そんなにお書きになると、とりわけ病気にさわりましょう、お苦しいでしょうと言っても、書かなくても苦しさは同じだ、病気の治療は、身体から割り出したのでなく、著述から割り出すのだ、書かなければこの世に用はない、すぐに死んでもよいのだと答えて、セッセと書く。

疲れれば休む、眠る、目がさめれば書くというふうであった。病室は廊下つづきの離れで、二部屋の奥のほうに、夜も一人で寝ておられる。半夜夢醒めて四顧寂蓼として人影なく、喞々たる四壁のこおろぎの声を聞くと、すでに墓場にでも行っているようで、心が澄みわたって哲理の思考にはもっともふさわしいから、たいていは夜中に書くとのことであった。

そして日に一時間か二時間かで、病気の悪い時には二、三日もつづけて休まれたが、九月十三日からはじめて、わずかに十日ばかりで、二十二、三日には、はや完結を告げていた。いまさらながらその健筆、じつに驚くべきである。」


こうした無理がたたって病勢は急速に進み、兆民はもう仰向けになることも、横を向くことも出来なくなった。喉頭部が腫れ上がったため、俯せになり両手を枕に置いて頭を支えているしかなくなったのである。彼は「続一年有半」完成後、三ヶ月と持たずに永眠している。

「続一年有半」には、「一名無神無霊魂」という副題がついている。
副題が示す通り、これは彼の信条とする唯物論哲学を述べたものである。彼の唯物論はフランス留学中、フランス唯物論の影響を受けて以来のものだと思われるが、僅か十日で書き流したものだから、中学生にも分かるような平易な内容になっている。

われわれが生きている宇宙は、最初からこうした形であったのであり、誰が創造したものでもない。宇宙を形成する元素は、転々と形を変えて存在し続けるから、この宇宙に終わりというものはない。物質は不増不減、宇宙は無始無終、永遠に存在するのがあるとしたら、元素によって組成された「モノ」だけである。

人間も元素で組成されている。人間の本体は物質で、精神はその作用に過ぎない。だから、人間が死んでも霊魂は残るというような考え方は、唐辛子がなくなっても辛みは残る、あるいは太鼓がなくなっても音だけは永遠に残ると言うに等しい妄言なのだ。

人が死ねば、その意識は無に帰して痕跡をとどめない。シャカ・イエスの霊魂は死ねば忽ち無に帰するが、「路上の馬糞は世界と共に悠久で有る」。生きているうちは自己社会の改善につとめ、死んだら綺麗さっぱり無に帰する。これ以外に入間の生き方はあるか。

「続一年有半」は、こうした単純明快な原理を比喩を用いながら多方面に押し広げるのである。

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実に愉快である。
100年以上も前に亡くなった人が、現世でも有名な天文学者ホーキング博士よりも、明快に宇宙をとらえていることに、私は快哉を叫びたい。
そして世間を迷わす《霊魂》の話も実に簡明で、その比喩はユーモラスである。
特に最後の言葉…「路上の馬糞は世界と共に悠久で有る」…には思わず笑ってしまいました。

70歳を迎えた私が、これから地元の偉人・幸徳秋水から新たな哲学を学びたいと、彼らの残した本を読み漁ることになります。
思えばこの10年、漫画みたいな小説ばかり読みまくり、もう四万十市の図書館には、私の読みたい本はなくなった…と思いかけていたのだが、また新たな分野に興味が広がり、しばらくは退屈せずに楽しく過ごせそうです。(笑)


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写真は《月下美人》
冬に枯らしかけたので、今年は花は咲かないか? とあきらめていた月下美人が今年も咲いた・月下美人にも紹介したように、花を咲かせてくれました。

そしてまた先日、新たに3輪の花が咲きました。
もう、これが今年最後の開花だろうと思います。





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孫去りて 身も心も 虚脱する

2016/08/22(月)

高校野球も終わりました。
作新は走攻守にバランスの取れたいいチームでした。
北海はすい星のごとく現れ、一戦ごとに力をつけた勢いのあるチームでした。
私の故郷からは秀岳館がベストフォー入りしましたが、ちょっと粗削りでした。もう少し丁寧さが身につくと強いチームになりそうです。
もう一つ、高知・明徳もベストフォー入りしましたが、こちらは、力不足が否めません。

まあいずれにしても、楽しめた高校野球でした。


そしてオリンピック…こちらも今日で終わってしまいました。
過去最高のメダル獲得で、国民も大喜びでしょう。
ひとつ気になったのは、《勝つことが全て》の風潮があまりにも強すぎるのではないでしょうか。
そりゃあ、勝負ですから、勝ちを狙いに行くのは当然です。しかし、あまりにも勝ちにこだわると、オリンピックの本来の目的…「スポーツを通して心身を向上させ、さらには文化・国籍など様々な差異を超え、友情、連帯感、フェアプレーの精神をもって理解し合うことで、平和でよりよい世界の実現に貢献する」…という、クーベルタンが提唱したオリンピズムの大切さを忘れてしまうことになります。

レスリングの吉田選手を例にとると、決勝で敗れてリングに泣き伏し、《お父さんに怒られる》なんてコメントしていましたが、私は、堂々と胸を張り、笑顔でコメントをしてほしかった。
《精一杯頑張りました。でもやっぱり年ですね…》とか。

そしてなんといっても、お盆最大の我が家のイベントは《孫ちん襲来》でした。


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可愛い顔して、時々拗ねて見せる孫ちんは、今1歳10か月…かわいい盛りです。


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生憎熱を出した孫ちんたち…海や川で泳ぐのを楽しみにしていましたが、あきらめ、近所のおじさんに頼んで、手長エビを採る仕掛けを上げに行きました。
ご覧のようなエビが3匹だけでしたが獲れました。


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エビを持って喜んでいるのは、4歳7か月になる孫ちん。
大喜びで持ち帰り、塩焼きにして《おいしいね》を連発しながら食べていました。

その孫たちも16日の夜に大阪へと帰っていきました。
その後は、もうがっくりと虚脱感に浸り今まで、ブログの更新も億劫な状態が続いています。

もう一つ、今年の台風…本当に変ですねえ。
7月3日に台風1号が発生。1951年の統計開始以来、台風1号の発生としては2番目に遅い発生…と話題になっていましたが、現在まで11個の台風が、台風銀座と言われる四国に1本も来ていないのである。

九州四国を覆う強い高気圧に邪魔されて、ほとんどの台風が関東から東北、北海道へと北進するのだ。これは実に珍しい事態である。
異常気象は、今後本格的に定着して、これからは、関東から北が台風銀座と呼ばれることになるのだろうか?

まあ、それはあり得ないか。にしても、この事態…関東以北の人たちにも、毎年台風が直撃する九州、四国の人たちの苦労が少しは理解できたのではないだろうか。

まあ、戯言は置いといて、各地の台風被害が最小でありますように、祈念しています。





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忙しいねえ…今年の夏は

2016/08/11(木)
高知では暑い夏の祭典《よさこい祭り》が昨日9日から始まりました。
12日まで、連日1万8千人もの踊り子たちが市内を練り歩きます。

それに加えて、待ちに待ったオリンピックが始まりました。
そして、大好きな高校野球と…毎日番組を見ながらうろうろとしています。(笑)
さらに大阪からの来客あり、卓球仲間のお泊りカラオケ宴会…と《そんなんでエエンカイ》の中、いよいよ我が家大本命の孫ちんたちがもうすぐやってきます。

もうたまりません。この夏は最高です。


IMG_4516.jpg  オリンピックの柔道選手…《銅メダルでごめんなさい》発言に世間は騒いでいますが、私は、もっと気楽にスポーツを楽しんだらどうですか…と思います。

女子を締め出す高校野球と同じ、古いですねえ。日本の国技と言われる相撲さへ、外国人横綱ばかりではないですか。
まして柔道は、今や国際的なスポーツです。

日本選手が金メダルを取れないからと、悲壮な顔をするのは、むしろ滑稽です。
柔道界も時代に合った国際感覚が必要だと思います。

さて我が家のリビングの真ん中に立つ、1本の1升瓶…中身はどこの何という銘酒なのか…左党なら、そう思うはずです。(笑)
天空の里・大豊町から送られてきました。
中身は、友人が自宅で採取したハチミツです。
混じりけの無い、純粋なハチミツ…これがおいしいんです。


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珍しい花です。名前は?

友人宅を訪ねたとき、庭に咲いていました。
下の《鹿の子百合》も、時期的にはもう終期です。
右の花も径1cmほどの小さな花です。これも名前が分かりません。


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IMG_4517.jpg そして、こちらは話には聞いていましたが、はじめてお目にかかりました。

《食べられるほうずき》です。大きさは1cm以下の小さなものです。
食べると甘みが口に広がります。ヨーグルトに入れて食べると、そこそこおいしく食べられました。

ちよっと、先の参院選で投票率が全国最低だった、その大きな理由…合区で、高知県から出る候補者がいなかったという、いわゆる合区問題について、最近よく質問されます。
その問題を取り上げたいと、思っていましたが、これから孫ちんたちがやってきます。当分無理かな?
時間が出来たら、取り上げたいと思っています。





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護憲勢力の未来は明るい…天皇発言、他

2016/08/09(火)

今回の参院選直後の7/24に《JCJフラッシュ》に
《「護憲」をあきらめるのはまだ早い…参院選結果が語るもの》という元朝日新聞記者の吉竹幸則氏の記事が乗せられていた。(下記に全文掲載しています)

皆さんにも全文を読んでいただきたいが、要旨を簡単に掲載する。
①護憲勢力は正念場を迎えているが、現在一番焦っているのは、意外にもアベシンゾウ本人。
②流れから言えば、3年後の参院選で改憲勢力は確実に3分の2の議席を割り込む。
③アベに残されたチャンスは、この3年間。
④憲法9条の改憲は、国民の抵抗が強い。
⑤強引に憲法9条に手をつければ、薮蛇となる恐れあり。

つまり、護憲派政党と市民グループにとって、次期参院選までの3年間が踏ん張りどころ、正念場なのだ。

そして、今後の護憲勢力の課題として、吉竹氏は次の課題を挙げている。
①市民のエネルギーを今後も継続できるか?
②平和憲法の意義や経過を、若い人たちに、どんな方法で伝えていくのか?
③護憲・脱原発は市民連合の絶対条件…身内の改憲派・原発推進派を民進党は切れるか?

《野党共闘》の中心となる民進党には、獅子身中の虫を追い出し、電気労連など脱原発の阻害要因となる連中に党の政策を左右されない体制を作ることが、国民の《信頼》を得るための絶対条件である。
右往左往する民進では、《野党共闘》は発展しない。覚悟を決めよ、民進党。


もう一つ、護憲派に大きな追い風…天皇のメッセージ

いや~  びっくりしましたねえ。
昨日15時からの《天皇のメッセージ》…私は元々、天皇に対して、絶対主義的天皇制のイメージが強くて、正直あまりいい感情は持っていませんでしたが、最近の天皇の平和発言や憲法を大切にする発言、あるいは戦争被災国への謝罪訪問、国内での被災者や、障害者など弱者への労りなど、少し見直していましたが、昨日のメッセージを聞いて、感動しましたねえ。

国民の皆さんが、あの発言から、何を聞き取ったか…ちょっと不安な面もありますが、実は大変な内容を意味深な内容を含んだ、重大な発言だと私は思いましたねえ。

上の記事で①護憲勢力は正念場を迎えているが、現在一番焦っているのは、意外にもアベシンゾウ本人。…と言う指摘がありましたが、この《天皇発言》に一番焦ったのも、アベシンゾウではなかったのか…と私は思いました。

その理由は、《天皇発言》を政府は無視できないからです。
国民の多くも、天皇に同情するでしょう。《政府はちゃんと対策を立てろ…》と、善意の国民は、みんなそう思うでしょう。

すると一番困るのは、アベシンゾウなのであります。
それはなぜか?
政府が国民の声に押されて《天皇発言》に対応すれば、その準備や法規の整備、宮内庁、皇室との話し合いで、少なくとも2年間は、かかりきりになるからです。

その間、アベシンゾウ君は、《千載一遇》の改憲の企み…が進展しなくなるのでありますよ。(笑)
それにどうやら天皇は《天皇元首化》を狙う自民党改憲案よりも、現憲法の方がお好きのようです。(笑)
護憲勢力は、《天皇発言》に感謝を捧げつつ、まあ捧げなくとも、じっくりと護憲勢力の結集と体制づくりができる…と言う訳です。

いや~  私は、これからの憲法9条を守る運動が楽しくなってきましたねえ。

ここで、吉竹氏の最後の言葉を載せておこう。
暗ければ暗いほど、明けない夜はない。「3年後」を目指し、「平和憲法を守りたい」市民グループが、やるべきことを果敢に実行するのは、今なのだ。

***********  以下に資料掲載  ********************************************

2016年07月24日

「護憲」をあきらめるのはまだ早い――参院選投票結果が語るもの=吉竹幸則

 今回の参院選で改憲勢力が3分の2になった。
 既成マスコミは「与党圧勝」を伝え、改憲発議は不可避とのあきらめムードも一部に広がっている。でも、そうではない。昨年の違憲安保法制阻止で国会を取り巻いた市民運動の成果は確実に上がっているのだ。
 投票結果からそれを分析出来ない今の記者の力量にも、私は疑問を感じる。3年踏ん張れれば――。市民グループはその間、どう闘うか、闘えるかである。
 今回の投票結果を見て、一番改憲に焦りを強めているのは安倍晋三首相本人だという。自民党筋から流れて来た話だ。安倍氏が何故、焦っているのか。今回の獲得議席数を詳しく見れば、簡単に分かることなのだ。

 確かに今回の選挙で改憲勢力は3分の2を占めた。しかしよく見れば、民主政権崩壊の影響をもろに受けた3年前の参院選自民圧勝の貯金である。獲得議席数で見ると、自民の前回は65。今回は56と9議席に減らしている。公明は、11から14。一方、民進(前回は民主)は17から32に増えた。共産は前回の8が今回は6。6年前の選挙より倍増したが、野党協力で候補者を減らした影響もあるだろう。
 この選挙結果をもたらした勢いが、3年後もそのまま続くと仮定すると、改憲勢力は再び3分の2を割り、発議は困難になる。改憲が悲願の安倍氏にとって残された期間は「この3年」ということになる。
 本丸の9条は国民の抵抗感が強い。他の改憲から手を付けるかのではないかとこれまでも言われてきた。しかし、3年後からはさらに難しいとなれば、9条改憲が本丸と位置付ける安倍氏は、9条以外の小手先の改憲で満足するかどうか。今後さらに強硬に出るかも知れない。
 ただ、安倍氏が焦って強引に9条に手を付ければ、ボロも出る。護憲派には格好の攻めどころになるはずだ。衆院解散がいつあるかは分からない。しかし、次期参院選までの3年間が、護憲派政党や市民グループにとって、最大の踏ん張りどころ、正念場である。

 選挙結果をもう少し詳しく見てみよう。
 党勢を計るには、地元の選挙事情で左右される選挙区投票結果より、比例区で見るのが一番だ。3年前の比例区自民得票率は34.68%が、今回は35.91%と微増。公明は14.22%が13.52%。一方、野党共闘の主要勢力の民進は、13.40%(当時民主)から20.98%と大幅に票を伸ばして突出。共産は9.68%が10.74%、社民2.36%が2.74%、生活1.77%が1.91%である。
 今回参院選事前の朝日新聞グループ世論調査では、「自民、公明の与党と、民進などの野党とどちらの議席が増えた方がよいと思いますか」に「与党の議席が増えた方がいい」が41%、「野党が増えた方がいい」は42%と拮抗・均衡。「自民、公明党など憲法改正を進めたい政党が勝って、改正を発議して提案するのに必要な3分の2の議席を確保した方が、よいと思いますか」には、「思う」が35%に対して、「思わない」が47%と、大幅に上回っていた。
 この3年間、民進が支持率を増やせるような何らかの政治的成果を挙げたと感じる人はほとんどいないだろう。民進の得票・議席の増加は実力、党独自の努力ではない。安保法制阻止で国会前に集まった人々に代表される「改憲」に慎重な意見を持つ無党派層の風を受けた結果である。旧社会党の流れを汲み、護憲無党派層の風を今でも受けられる民進は、やはり「腐っても鯛」であることを実証したのも、今回の参院選と言えるだろう。

 自らの候補者を降ろしてでも、1人区で野党共闘を主導した「志位共産」に、私も敬意を表する。今回の一人区は確かに11勝21敗と負け越しにはなったが、前回の2勝29敗(前回は31選挙区)に比べ、はるかに改善した。志位氏の功績である。ただ、これまでも言われたことだが、共産には「得票率10%の壁」がある。今回の選挙でもその壁を大幅に打ち破ることはできなかった。ならば、今後の選挙で、平和憲法を守り抜くには、それぞれ利害がぶつかる政党主導ではなく、市民グーループが主導権を握り、共通マニフェストを作って野党共闘の枠組みを維持し、それをさらに進化させられるか否かがカギとなる。

 一つ目の課題は、昨年の違憲安保法制成立時に国会包囲で見せつけた市民のエネルギーを維持し、今後もその力を機会あるごとに安倍政権に見せつけられるかどうか、である。
 市民グループが自然発生的に起こした活動は、これまで下火に見えた護憲勢力の地下水脈が今でも脈々と流れていることを如実に示した。結集軸さえ見つかれば多くの人は集まる――。バラバラだった「平和憲法を守りたい」とする人々の心を一つにし、自信を植え付けた。次回参院選の3年後まで、結集軸をより太くし、安倍政権に見せつけ続けることが、9条改憲発議を与党側に思いとどまらせることにつながる。

 二つ目は、若い人へのアピールである。年代別に見ると、若い人ほど改憲派に投票し、年代が上がると護憲派の比率が増える。朝日の出口調査では、自公両党に投票した割合は20代が最も高かった。今回の選挙で初めて選挙権を与えられた18、19歳についてみても、改憲派の自民40%、公明10%、おおさか維新8%に対し、民進17%、共産8%に留まっている。
 しかし、若い人たちが、平和憲法成立の歴史的経過や戦後70年以上、少なくとも日本で直接の戦死者を出さなかった意義について、どこまで正確に認識して投票に行ったのか。そもそも自民の改憲案をまともに読んだ人はほとんどいないのではないか。シールズの登場が安保法制阻止で高年齢層に活気を与えたが、シールズに限らず市民グループが、若い人に現行憲法を知ってもらうために何をするか、できるかである。
 三つ目は、実は一番肝心なことだが、野党共闘の中心になる民進への対応である。民進は、政権を取った(民主時代)ことで露呈した通り、寄り合い世帯。出身母体の損得勘定、政見、政策も議員ごとにバラバラである。隠れ改憲派も多数いる。市民グループがせっかく民進の尻を持ちあげて3年後に当選させても、隠れ改憲派に寝返りされ、やすやすと改憲に向かって進むことになれば、何のための野党共闘選挙かということになりかねない。
 護憲市民グルーブは、脱原発とセットで護憲を主張するところが大半だ。
 民進はその配慮も働いて、この選挙のマニフェストに何とか「2030年代原発ゼロ」を盛り込んだ。しかし、産経新聞は民進の有力支持団体、連合傘下の電力総連との溝を伝えている。
 電力会社に働く労組員で構成する電力総連は、会社側と軌を一にして「電力安定供給に原発は不可欠」との立場だ。記事によると、参院選公示日直前の6月17日、「九州電力総連」の定時大会で、比例区で立候補した民進現職、電力総連顧問の小林正夫氏は、「民進党の小林ではなく、電力グループの代表として推してほしい」と訴えたというのだ。発言に先立ち、九州電力総連会長も「参院選は組織の力量を示す選挙。政党名は関係なく、個人名を書く選挙と割り切ってほしい」と呼びかけた、とされる。
 確かに小林氏は個人名で27万票余りを集め、民進比例区候補の中でトップ当選を果たした。しかし、この票だけでは小林氏の当選はおぼつかない。民進は政党名で875万票も集めていて、その票によるところが大きい。
 つまり、電力総連の集票力はせいぜいこの程度なのだ。電力労連が民進を支えたのではなく、「民進」と言う名前のブランド力に支えられて小林氏が当選させてもらったに過ぎない。「民進」と書いた人の多くが護憲・脱原発の民進マニフェストによるものだとしたら、小林氏は今後の議員活動においても、原発存続を主張することは本来、許されない。だが、「電力グループの代表」を自負する小林氏は、今後も脱原発で議員活動をすることはないのだろう。
 電力総連に限らず、与党、野党の双方に息のかかった議員を送り込み、企業・組織の既得権を守ろうとするところはいくらでもある。今の民進はその温床として利用されている面も少なくない。しかし、そんな民進候補なら市民グループの方から願い下げにすればいい。野党共闘の応援対象からさっとと手を引けば、民進は前回の17議席に逆戻りする。

 今回、何とか党勢衰退に歯止めをかけることが出来たのは誰のお蔭か、身に染みて知ったはずだ。反転攻勢には市民グループの力がより必要だから、その政策提言は無下には断れない。「護憲・脱原発」を本当に目指す政党に再生させるには、民進の分裂も恐れない荒療治は不可欠なのだ。
 電力総連に限らず、市民グループの主張と相いれない組織内候補の切り捨てを迫れば、民進はいくらかの票を減らすだろう。それでも、小林氏は民進にいてこそ、電力会社労使にとって存在価値がある。自民に鞍替えを臭わせて揺さぶりをかけても、当選はおぼつかないだろうし、放置すればいいだけだ。

 今回選挙の投票率は54.70%。前回に比べて2.09ポイント上回ったものの、過去の参院選と比較すればまだまだ低い水準だ。議員ごとにバラバラで空中分解した政権時代に懲り、無党派層には「せっかく票を入れても、どんな政策を実行されるか分からない」と民進に不信感がある。今回の選挙でも、与党の暴走を止めたいと思いながらも、実際に投票所に足を運ぶことをためらった人も多いはずだ。
 もし、隠れ改憲派や原発推進派が去って、「民進は本当に一体」との信頼が今回の参院選であったなら、無党派層をもっと投票所に足を運ばせることが出できたはず。それで投票率をあと2-3%上げられれば、組織票の減った分は十分カバーでき、今回の選挙結果は大幅に変わった。

 暗ければ暗いほど、明けない夜はない。「3年後」を目指し、「平和憲法を守りたい」市民グループが、やるべきことを果敢に実行するのは、今なのだ。

(よしたけ・ゆきのり/フリージャーナリスト/元朝日記者・秘密保護法違憲訴訟原告)




天皇のメッセージ全文
時事通信 8月8日(月)15時10分配

  
 戦後七十年という大きな節目を過ぎ、二年後には、平成三十年を迎えます。

 私も八十を越え、体力の面などから様々な制約を覚えることもあり、ここ数年、天皇としての自らの歩みを振り返るとともに、この先の自分の在り方や務めにつき、思いを致すようになりました。

 本日は、社会の高齢化が進む中、天皇もまた高齢となった場合、どのような在り方が望ましいか、天皇という立場上、現行の皇室制度に具体的に触れることは控えながら、私が個人として、これまでに考えて来たことを話したいと思います。

 即位以来、私は国事行為を行うと共に、日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごして来ました。伝統の継承者として、これを守り続ける責任に深く思いを致し、更に日々新たになる日本と世界の中にあって、日本の皇室が、いかに伝統を現代に生かし、いきいきとして社会に内在し、人々の期待に応えていくかを考えつつ、今日に至っています。

 そのような中、何年か前のことになりますが、二度の外科手術を受け、加えて高齢による体力の低下を覚えるようになった頃から、これから先、従来のように重い務めを果たすことが困難になった場合、どのように身を処していくことが、国にとり、国民にとり、また、私のあとを歩む皇族にとり良いことであるかにつき、考えるようになりました。既に八十を越え、幸いに健康であるとは申せ、次第に進む身体の衰えを考慮する時、これまでのように、全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが、難しくなるのではないかと案じています。

 私が天皇の位についてから、ほぼ二十八年、この間(かん)私は、我が国における多くの喜びの時、また悲しみの時を、人々と共に過ごして来ました。私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。天皇が象徴であると共に、国民統合の象徴としての役割を果たすためには、天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。こうした意味において、日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じて来ました。皇太子の時代も含め、これまで私が皇后と共に行(おこな)って来たほぼ全国に及ぶ旅は、国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井(しせい)の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした。

 天皇の高齢化に伴う対処の仕方が、国事行為や、その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには、無理があろうと思われます。また、天皇が未成年であったり、重病などによりその機能を果たし得なくなった場合には、天皇の行為を代行する摂政を置くことも考えられます。しかし、この場合も、天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま、生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません。

 天皇が健康を損ない、深刻な状態に立ち至った場合、これまでにも見られたように、社会が停滞し、国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます。更にこれまでの皇室のしきたりとして、天皇の終焉に当たっては、重い殯(もがり)の行事が連日ほぼ二ヶ月にわたって続き、その後喪儀(そうぎ)に関連する行事が、一年間続きます。その様々な行事と、新時代に関わる諸行事が同時に進行することから、行事に関わる人々、とりわけ残される家族は、非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません。こうした事態を避けることは出来ないものだろうかとの思いが、胸に去来することもあります。

 始めにも述べましたように、憲法の下(もと)、天皇は国政に関する権能を有しません。そうした中で、このたび我が国の長い天皇の歴史を改めて振り返りつつ、これからも皇室がどのような時にも国民と共にあり、相たずさえてこの国の未来を築いていけるよう、そして象徴天皇の務めが常に途切れることなく、安定的に続いていくことをひとえに念じ、ここに私の気持ちをお話しいたしました。

 国民の理解を得られることを、切に願っています。




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71年前の広島原爆投下の日

2016/08/06(土)
広島原爆投下の日

1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分に、アメリカ軍が日本の広島市に対して投下した原子爆弾
原爆投下直後のの8月から12月の間の被爆死亡者は、広島市の推定によれば約14万人とされています。

たった1発の爆弾で、これだけ多数の人が死んだ。
原爆投下直後、高野源進広島県知事は次のように告諭している。

            「今次ノ災害ハ惨悪極マル空襲ニヨリ吾国民戦意ノ破砕ヲ図ラントスル敵ノ謀略ニ
             基クモノナリ、広島県民諸君ヨ、被害ハ大ナリト雖モ之戦争ノ常ナリ、
             断ジテ怯ムコトナク救護復旧ノ措置ハ既ニ着々ト講ゼラレツツアリ、軍モ亦絶大ノ
             援助ヲ提供セラレツツアリ、速ニ各職場ニ復帰セヨ、
             戦争ハ一日モ休止スルコトナシ」


知事の立場として、そういわざるを得なかったのでしょうが、軍国主義下での人々の命が、いかに軽く見られていたか、知事の言葉に如実に表れています。

当時の原爆被害の惨状を詩人・峠三吉は次のように表現しています。
ほんの一部を紹介しておきます。

原爆詩集峠三吉
一九四五年八月六日、広島に、九日、長崎に投下された原子爆弾によっ
て命を奪われた人、また現在にいたるまで死の恐怖と苦痛にさいなまれ
つつある人、そして生きている限り憂悶と悲しみを消すよしもない人、
さらに全世界の原子爆弾を憎悪する人に捧ぐ。

ちちをかえせ ははをかえせ
としよりをかえせ
こどもをかえせ
わたしをかえせ わたしにつながる
にんげんをかえせ
にんげんの にんげんのよのあるかぎり
くずれぬへいわをへいわをかえせ


倉庫の記録
その日
いちめん蓮の葉が馬蹄型に焼けた蓮畑の中の、そこは陸軍被服廠倉庫の
二階。高い格子窓だけのうす暗いコンクリートの床。そのうえに軍用
毛布を一枚敷いて、逃げて来た者たちが向きむきに横たわっている。み
んなかろうじてズロースやモンペの切れはしを腰にまとった裸体。
足のふみ場もなくころがっているのはおおかた疎開家屋の跡片付けに出
ていた女学校の下級生だが、顔から全身にかけての火傷や、赤チン、
凝血、油薬、繃帯などのために汚穢な変貌をしてもの乞の老婆の群の
よう。
壁ぎわや太い柱の陰に桶や馬穴が汚物をいっぱい溜め、そこらに糞便を
ながし、骨を刺す異臭のなか
「助けて おとうちゃん たすけて
「みず 水だわ! ああうれしいうれしいわ
「五十銭! これが五十銭よ!
「のけて 足のとこの 死んだの のけて
声はたかくほそくとめどもなく、すでに頭を犯されたものもあって半ば
はもう動かぬ屍体だがとりのける人手もない。ときおり娘をさがす親
が厳重な防空服装で入って来て、似た顔だちやもんぺの縞目をのろの
ろとのぞいて廻る。それを知ると少女たちの声はひとしきり必死に水
と助けを求める。
「おじさんミズ! ミズをくんできて!」
髪のない、片目がひきつり全身むくみかけてきたむすめが柱のかげから
半身を起し、へしゃげた水筒を差し上げ振ってみせ、いつまでもあき
らめずにくり返していたが、やけどに水はいけないときかされている
おとなは決してそれにとりあわなかったので、多くの少女は叫びつか
れうらめしげに声をおとし、その子もやがて柱のかげに崩折れる。
灯のない倉庫は遠く燃えつづけるまちの響きを地につたわせ、衰えては
高まる狂声をこめて夜の闇にのまれてゆく。

二日め
あさ、静かな、嘘のようなしずかな日。床の群はなかばに減ってきのうの
叫び声はない。のこった者たちの体はいちように青銅いろに膨れ、腕が
太股なのか太ももが腹なのか、焼けちぢれたひとにぎりの毛髪と、腋
毛と、幼い恥毛との隈が、入り乱れた四肢とからだの歪んだ線のくぼ
みに動かぬ陰影をよどませ、鈍くしろい眼だけがそのよどみに細くと
ろけ残る。
ところどころに娘をみつけた父母が跼んでなにかを飲ませてい、枕もと
の金ダライに梅干をうかべたうすい粥が、蠅のたまり場となっている。
飛行機に似た爆音がするとギョッと身をよじるみなの気配のなかに動か
ぬ影となってゆくものがまたもふえ、その影のそばでみつけるK夫人
の眼。
三日め
K夫人の容態、呼吸30、脈搏100、火傷部位、顔面半ば、背面全面、腰
少し、両踵、発熱あり、食慾皆無、みんなの狂声を黙って視ていた午前
中のしろい眼に熱気が浮いて、糞尿桶にまたがりすがる手の慄え。水
のまして、お茶のまして、胡瓜もみがたべたい、とゆうがた錯乱して
ゆくことば。
硫黄島に死んだ夫の記憶は腕から、近所に預けて勤労奉仕に出てきた幼
児の姿は眼の中からくずれ落ちて、爛れた肉体からはずれてゆく本能
の悶え。
四日め
しろく烈しい水様下痢。まつげの焦げた眼がつりあがり、もう微笑の影
も走ることなく、火傷部のすべての化膿。火傷には油を、下痢にはげ
んのしょうこをだけ。そしてやがて下痢に血がまじりはじめ、紫の、紅
の、こまかい斑点がのこった皮膚に現れはじめ、つのる嘔吐の呻きの
あいまに、この夕べひそひそとアッシ島奪還の噂がつたえられる。
五日め
手をやるだけでぬけ落ちる髪。化膿部に蛆がかたまり、掘るとぼろぼろ
落ち、床に散ってまた膿に這いよる。
足のふみ場もなかった倉庫は、のこる者だけでがらんとし、あちらの隅、
こちらの陰にむくみきった絶望の人と、二、三人のみとりてが暗い顔
で蠢き、傷にたかる蝿を追う。高窓からの陽が、しみのついた床を移
動すると、早くから夕闇がしのび、ローソクの灯をたよりに次の収容
所へ肉親をたずねて去る人たちを、床にころがった面のような表情が
見おくっている。
六日め
むこうの柱のかげで前進の繃帯から眼だけ出している若い工員が、ほそ
ぼそと「君が代」をうたう。
「敵のB29が何だ、われに零戦、はやてがある――敵はつけあがって
いる、もうすこし、みんなもうすこしの辛棒だ――」
と絶えだえの熱い息。
しっかりしなさい、眠んなさい、小母さんと呼んでくれたらすぐ来てあげ
るから、と隣の頭を布で巻いた片眼の女がいざりよって声をかける。
「小母さん? おばさんじゃない、お母さん、おかあさんだ!」
腕は動かず、脂汗のにじむ赧黒い頬骨をじりじりかたむけ、ぎらつく双
眼から涙が二筋、繃帯のしたにながれこむ。
七日め
空虚な倉庫のうす闇、あちらの隅に終日すすり泣く人影と、この柱のかげ
に石のように黙って、ときどき胸を弓なりに喘がせる最後の負傷者と。
八日め
がらんどうになった倉庫。歪んだ鉄格子の空に、きょうも外の空き地に
積みあげた死屍からの煙があがる。
柱の蔭から、ふと水筒をふる手があって、
無数の眼玉がおびえて重なる暗い壁。
K夫人も死んだ。
――収容者なし、死亡者誰々――
門前に貼り出された紙片に墨汁が乾き
むしりとられた蓮の花片が、敷石のうえに白く散っている。



敗戦後71年…この国の政治を自公政権に任せておいていいものかどうか?
みなさん改めて、戦中、戦後の時代へ思いをはせて、我が国の憲法が、いかなる意味を持ち、世界に向けていかなる光を放っているのか?

よくよく考えてみませんか。




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我が家の衛星写真

2016/08/05(金)
昨日は、連れ合いさんと、その友人3人で、四万十診療所へ行ってきました。
月に1度の連れ合いさんの定期検診日。それに私も乗っかり診察してもらいました。
先月、白内障に手術をした時の血液検査の結果が気になったので、相談に行きました。
腎系統の数値を示すクレアチニンと尿素窒素の値が基準値を超えていたため、毎年2回行っている眼瞼マルトリンパ腫のMRIの造影剤使用とPET-CTの検査が腎臓によくないのではないか?…

それが気になって、お医者さんに行ってきましたが、数値的に検査を回避するほどのことはない。検査は受けた方がいいだろう…との医師の見解でした。

まあ、それで一応は安心しました。
昼から、3人で四万十川中流域の農家レストラン《しゃえんじり》で、久しぶりに田舎料理を食べました。

その後、以前から気になっていた近くのブログ主  四万十田舎暮らし  さんの家を探しに行ってきました。意外と簡単に家が見つかり、厚かましくも、とんとん、こんにちは…と家を訪ね、1時間以上も話をさせていただきました。

大阪から移住してきたという《みっちゃん、えっちゃん》のご夫婦は、すっかり地元に溶け込み、毎日楽しく田舎暮らしを送っておられました。
帰りには、ピーマンやらキュウリ、ナスなどをお土産に頂きました。
途中で、知人宅に寄ったので、そこでお土産は減ってしまいました。(笑)
その残りが下の写真です。採りたてのピカピカです。


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またも、話はころりと変わります。
これまで、《我が家の池は太平洋》などと、ブログで大風呂敷を広げていましたが、その写真を一度も掲載したことはありませんでした。

今、思いついて、衛星写真を取り込みました。
我が家が、太平洋を見下ろす崖の上にあるのは分かっていただけると思います。
写真では、津波が来れば飲み込まれそうな感じに見えますが、これでも海抜34mあります。
まあ、我が家が波に飲まれるときは、高知県の都市はほぼ壊滅しているでしょうね。

周りに数軒、家がありますが、我が家以外誰も人は住んでいません。
今でも、友人を招いて夜中にカラオケ大会をやりますが、いまだかって、何処からも苦情は来ておりません。(笑)


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これは、浜に降りて我が家の真下の海を撮影したものです

この沖を、時にはでっかいクジラやマグロが黒潮に乗って泳いでいきます。
本当は漁船を買って、クジラやマグロに挑戦したいところですが、残念ながら資金がありません。連れ合いさんの許可も出ないのです。とほほ・・・

まあねえ、男のロマンは、昔から女や子供には理解できない…ものなのです。

男のロマンはひとまず置いといて、とりあえずこの夏は、孫ちんたちと、この近くの海水浴場で遊びたいものです。(笑)




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盛夏お見舞い

2016/08/02(火)
全国的に暑いですねえ。まずは暑中お見舞い申し上げます


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セミの声  暑さ広がる  庭の木々



我が家は、29日に大阪から来客1名あり。30日には四万十川の水泳マラソンに参加する4名の来客あり…で、暑さもひとしおの毎日が続いています。
今は、厳しい日差しを浴びながら、遠くにとどろく雷鳴を聞いています。
一雨、夕立でも来れば少しは涼しくなるのでしょうが、ちょっと海水浴を楽しんでいる人たちが心配です。

エアコンの利いた室内から庭に出ると、一気に汗が噴き出してきます。ついでにうっとおしい《アベシンゾウ》ならぬ《やぶ蚊》も襲い掛かってきます。
庭にはねえ、以前紹介した、モミジアオイやムクゲ、キキョウなどのタニ他に、今こんな花たちが咲いています。


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ノカンゾウ                                                 ゲンノショウコ


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ミズヒキ                                                    コムラサキ


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白蝶草                                                           鉄砲百合

どうやら雨が降り出したようです。みなさん暑い夏、元気にお過ごしください。
もう少しすると、我が家にも《小さな足音》が響き渡ることでしょう。
今から、とても楽しみです。(笑)



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プロフィール

simanto114

Author:simanto114
残された人生、命ある限り、ある程度世の中のお役にも立ちつつ、海・山・川に戯れながら生きたい…と結構欲張り爺さんのぼやき日誌です。

よろしくお付き合いください!

のんびりとお付き合いを
「あしたまにあーな」…「明日できることは今日はやらない」がわが人生訓です

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