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SIMANTO114の田舎暮らし

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米軍機の事故は今後も続く…衝撃の実態

2018/02/09(金)
今日から、いよいよ楽しみにしていた平昌オリンピックが始まりました。
幸先よく、フィギュア団体戦の緒戦、ショートで宇野昌磨が100点越えで1位となりました。
しばらくはオリンピックを楽しみたいものです。

それにつけても、世間は大変ですねえ。
南国土佐でも、今まで経験したことも無いような連日の雪景色が続き、ブルブルと震える毎日です。特に福井県の車の立ち往生は、雪になれている地域だけに、想定を超えた積雪だったのでしょう。

さて、そんな折、かなりむかつく記事が産経新聞に載っていました。

「米兵美談」 「産経」誤報認める   沖縄2紙の批判受け謝罪



皆さんも、とっくにご存知だろうと思いますが、私は、先日沖縄に行き、米軍ヘリ墜落や不時着の現場を見てきただけに、この産経記事のでたらめさ、いい加減さには、怒り心頭に達しました。
沖縄県民への『加害者』である米軍を『救助者』のごとく作り上げ、事故を起こした米兵を『英雄』のごとく、祭り上げていたのです。しかも、産経記者は事故の調査もせず、ネット情報のみをうのみにして記事をでっち上げた…というから驚きです。

しかも、自らのでっち上げ記事を根拠に、この事件を報道しない沖縄の新聞2紙を『日本人として恥だ』と攻撃していたというから、開いた口がふさがりません。産経新聞は報道としての常識も良識も持ち合わせていないのか?
まるで政府広報と似たり寄ったり…同じ体質らしい。

沖縄の米軍ヘリの事故の多さを『このままでは近く重大事故が発生するぞ』と憂慮していたが、なんと、その前に
自衛隊のヘリが墜落5日午後4時45分ごろ、佐賀県神埼市千代田町嘉納で陸上自衛隊のヘリが墜落、住宅が炎上する…という事件が起きてしまいました。
そして、事故から3日後になんと、
事故現場近くの上空を、航空自衛隊の大型輸送ヘリCH47Jが飛行して現場住民の怒りが吹き上げています。

何とねえ、親分(米軍)が親分なら、子分(自衛隊)も子分なんだねえ。とても、国民主権、民主主義国家・日本の出来事とは思えない。まさに由々しき事態です。

米軍、衝撃の実態
先日、平和新聞を読んでいて、衝撃の記事を見つけました。
米軍、海軍機の過半数飛べず…予算不足で整備できず…という記事です。

 米海軍のウィリアムーモ上フン副作戦部長(大将)が米下院軍事委員会(2017年2月7日)で、「軍保有の航空機の半分以上を飛ばすことができず、国防費増額の見通しも立たない中で、投入出来る航空機の使用回数は限度まで来ている」と証言しました。
 さらに、「FA18(戦闘攻撃機)に限れば、任務に使えない機体の数は本来の水準の倍になっている」とも述べ、同型機の62%が整備の順番待ちなどで飛べない状態になっていることを認めました。へりを含む海軍の全航空機でも、53%が同様に稼働できない状態といいます。
 米海軍によれば、同機の機体寿命は約6000飛行時間を想定。しかし、稼働させる機材が少なくなっている現状を受け、現在は8000~9000時間まで伸びていると言われています。作戦行動が広がり、任務が複合化する中で、機体もパイロットも整備要員も酷使されていきます。
 このような状況になっている主な理由は、整備資金の不足です。海兵隊の新型輸送機MV22オスプレイも例外ではありません。
 2016米会計年度(15年10月~16年9月)の軍事費で、MV22オスプレイの部品交換予算は、わずかに50万㌦(約5500万円)が計上されているだけです。海兵隊では、部品交換も思うようにできず、長期間の任務に酷使されることが、事故多発の要因にもなっていると言われていま このような状況下で、事故は起こるべくして起きていると言えます。日本国内で繰り返される米軍の事故
は、米国自身が「単純なミス」でないことを認めているとおり、まさに米軍が抱えている構造的・制度的な問題なのです。
 根底にあるのは、継続的な財政危機の中での、「リバランス」戦略の軍事的破たんです。そして、世界で最も多く戦争をする国の矛盾が、「同盟国」日本の中で、とりわけ基地を抱える地域で一気に表出していると言えます。
 問題を解決するには、「軍基地をなくす」こと。その根源にある日米安保条約を廃棄する以外に道はありません。

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恐ろしいですねえ。こんなこと、日本人の何割が知ってるでしょうか?
道理で米軍機の事故が無くなるどころか、増え続けるわけです。

整備もできていない米軍機が沖縄の空を飛び続ける。パイロットも怖いでしょうが、その下に住んでいる住民は、とても生きた心地もしない…そんな記事でした。

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☝  雲間草
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☝ 梅花オウレン

我が家の庭も、連日の寒波で、花もしぼみ寂しい限りです。
その中で、買ってきた鉢植えの花、雲間草と梅花オウレンが、心に彩りを添えてくれます。

インフル流行しています。みなさん、風に負けず、インフルに負けず、
それよりも寒いアベ政治に負けず、暖かい春を迎えましょうう。





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辺野古支援に行ってきました⑥沖縄の戦跡巡りその2

2018/02/02(金)
前回の続きだ。沖縄2日目は、海軍司令部壕、南風原陸軍病院壕、ひめゆりの塔、魂魄の塔までが前回の話でした。
今日はその続きです。お昼、近くの食堂で今度は『野菜そば』を食べました。沖縄のソバは量が多いですねえ。都会の2杯分は優にあります。

その後、沖縄南部の戦跡を目指しました。

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☝ 韓国人慰霊の塔                                             ☝ 平和祈念資料館   
平和祈念堂をバックにして建っている。石塚を中心に韓国の各地域から集められた石が並ぶ、塚の前の 円形広場にはさまよえる魂のために故国への方向を示す矢印(写真手前)がある。
朝鮮半島から強制的に連行されてきた人々はもっとも立場の弱かった。そのためもっとも危険にさらされ、かつ虐殺された人もいた。いま、この日本の政治を彼ら死した人たちは、何ととらえるのでしょうね。

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☝ 平和の礎の碑
平和祈念資料館の門をくぐると、平和の礎がある。そこには見渡す限りの石板が立ち並んでいる。
圧倒的な思いが立ち上ってきます。

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☝ 石板1枚に約200名前後の氏名が記されている。その数24万余人…沖縄戦の全戦没者の数である。ここには、アメリカを含む外国人の名前も記載されています。ここに記された名前の一つ一つが、人の姿として、ここに立ち上がったらどんな光景が現出するでしょう。こんな愚かな戦争は2度としてはならないと思います。

☞ この辺り一帯が摩文仁の丘と呼ばれ沖縄戦の最後の激しい抵抗が行われた終結の地です。『ひめゆり学徒』の乙女たちも、この地で自決したそうです。平和の礎から左手に見える丘で第32軍司令長官牛島中将も自決したと言われています。

そしてここに、何と意外な、土佐のジョン・万次郎が日本に帰る第一歩を標した砂浜がありました。
白い矢印の場所がそうです。
ふ~ん、万次郎は、こんな場所から上陸したのか…時代を超えた感動が湧いてきます。
万次郎が上陸したこの浜で60数年後、沖縄の乙女たちが散っていったのか…

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☝ たくさんの遺骨が散らばっていた浜も、今は静かで穏やかな光景が続きます。
☞ 浜にあるS字の形は、海中ケーブルを埋めた跡だそうです。ここが戦場跡だと知ってか知らずか若者たちがサーフィンをしていました。

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☝ 戦死者を悼むかのように、道には赤やピンクのハイビスカスが咲いていた。
かつて、高知県選出の衆院議員・山原健二郎は沖縄に来て、こんな短歌を詠んだ。
                                「仏桑花 そこには咲くな そこは基地 なが紅は 沖縄のもの」

☞ ちょっと辺鄙な場所にあるから寄らない…と言っていたのに、時間があったのかな?
気が付くと、『土佐の碑』についていた。碑は八重瀬町具志頭の丘の上に建っている。祀られているのは18,545名でうち沖縄戦戦没者832名と南方諸地域戦没者 17,713名となっています。

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☝ 土佐の碑の下は、こんな海岸が…               ☝ 糸数アブチラガマ…戦跡案内人・村上さん

摩文仁から海岸線をさらに南へ行くと南城市がある。つい先日、沖縄最強の保守市長相手に65票差で競り勝った、瑞慶覧長敏(ずけらん・ちょうびん)新市長の誕生したところだ。「神の島」久高島、世界遺産の斎場御嶽、琉球を造った神「アマミキヨ」が最初に降り立ったとされるヤハラヅカサなど、人と神とがつながる聖地が点在している風光明媚なところだ。

今回我々が訪ねたのは光溢れる南城市にあって、一般的な観光客の姿がほとんど見られない特別な場所。眩しすぎる外界とは真逆の、深い闇に閉ざされた自然洞窟、糸数アブチラガマです。

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☝ 狭い入り口からヘルメットをかぶりガマへと入ります。今日は一体何回ヘルメットを被っただろう。
☞ 階段は最近、保存会の皆さんが自力でつけられたそうです。以前は滑りながら入っていたのかな?

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☝ 中は真っ暗。ここでも懐中電灯が頼りです。ただ洞窟は鍾乳洞だけに広い。
全長270mのこのガマ(自然洞窟)は日本軍の地下陣地として整備されましたが、戦況が悪化すると南風原陸軍病院の分室として使用されるようになりました。およそ600名の負傷兵が運び込まれ、軍医、看護婦とともにひめゆり学徒が看護にあたったそうです。
5月25日に撤退命令が出されると、破傷風や脳症に苦しむ重症患者が置き去りにされ、避難していた近隣の住民とともにアメリカ軍の攻撃に耐えながら、空気穴から入ってくるひと筋の光に生きる希望をつなげ、45人の住民と7人の負傷兵が奇跡的に生き抜きました。
入り口の近くには『命の井戸』と呼ばれた井戸があり、今も滾々と水が湧き流れていました。

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☝ こちらが出口になっています。                   ☝ 聖地・斎場御嶽入り口で記念撮影

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☝ 斎場御嶽から見える久高島                           ☝ 世界遺産・斎場御嶽
久高島は、琉球開闢(かいびゃく)の祖アマミキヨが天から舞い降りてきて、ここから国づくりを始めたという琉球の聖地。今も島の人々によって神事が行われ、平和への祈りと感謝が捧げられています。島と言っても山はなく、低いサンゴ礁の台地に見えました。

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                         ☝ ここを含めて周辺一帯を斎場御嶽というらしい

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☝ 琉球料理の店・龍潭

前号の分と合わせて、22日の戦跡巡りは終わった。想えば長い1日だった。沖縄に来て1日も、のんびりした日はなかった。毎日がハードスケジュールの連続でした。今日だけでも何回真っ暗な穴倉にもぐりこんだだろう。ヘルメットを被り、長い脚?を縮めて、悪戦苦闘、距離だけでも相当歩いた。普段の1ヶ月分も歩いたのではなかろうか。(笑)

まあ、それでも夕方7時ころから、現地の方たちと交流を兼ねた懇親会が開かれ、何とか疲れを癒しました。
今日1日案内してくださった村上さん始め、宮城さん、下地さん、伊佐村議、村山さん等、現地の方たちにずいぶんお世話になりました。

今回の旅には、面白い余談もいくつかありますが、あまりにも長くなるので、一旦この辺で終了といたします。

また行きたいなあ…沖縄。のどの調子もずいぶん直ってきたしねえ。(笑)


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辺野古支援に行ってきました⑤沖縄の戦跡巡り

2018/02/01(木)
沖縄に着いて2日目。1月22日は朝から沖縄の戦跡巡りの日です。レンタカー2台に分乗して海軍司令部壕を目指します。

海軍司令部壕は、沖縄戦において大日本帝国海軍の司令部として使用された防空壕である。戦後は旧海軍司令部壕としてその一部が一般に公開され、周辺は海軍壕公園として整備されている。豊見城市と那覇市の市境に位置する。

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☝ 海軍司令部壕は雨でした                                     ☝ 入り口は戦後補修されたみたいです

司令部壕は1944年8月10日に着工され、同年12月に完成した。海軍第226設営隊(山根部隊)の約3000名が設営にあたり、ほとんどの工事はツルハシなどを用いた手作業で行われた。小禄地区(那覇空港)周辺にはこの他にも多数の防空壕が建設され多くの住民が動員されたが、海軍司令部壕は最高軍事機密であったため民間人は近付くことも許されず工事は軍隊の手のみによって行われている。

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5月半ばアメリカ軍は那覇市街地に迫り、陸軍は5月22日沖縄本島南端部への撤退を決め、小禄司令部壕を守っていた海軍もこれに合流するため武器の一部を廃棄して移動を開始したが、命令の行き違いがあり小禄司令部壕へ引き返している。6月に入ってアメリカ軍の攻撃が激しくなったため陸軍との合流は断念せざるを得なくなり、海軍は司令部壕付近に孤立することに。


6月4日午前5時、アメリカ軍は小禄飛行場の北部に上陸し司令部壕のある那覇市南西部を包囲した。大田司令官は6日夕方に辞世の句とともに訣別の電報を打って自らの覚悟を伝え、同日夜には「沖縄県民斯く戦ヘリ」の電報を打って後事を託している。包囲が次第に狭められていく中で壕内
 に残った2,000名の海軍兵と共に玉砕の道を選んだ。

太田司令官の電文(一部)
私が知る範囲に於いては、県民は青壮年の全部が防衛のための召集に応募し、残された老幼婦女子は相次ぐ敵の砲爆撃に家屋と財産の全部を失い、わずかに身体一つで軍の作戦に差し支えない場所の小防空壕に避難したり砲爆撃下でさまよい、風雨にさらされながら乏しい生活に甘んじています。 しかも若い婦人は率先して軍に身を捧げ、看護婦や炊事婦はもとより、砲弾運び、挺身斬り込み隊への参加すら申し出る者さえいます。
沖縄県民はこのように戦いました。 県民に対し、後世、特別のご配慮をしていただくことをお願いします。

この電文のせいか、沖縄県民の感情は、太田司令官に対しては割と好意的だという。

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☝ 枝分かれした全長約450mの坑道といくつかの部屋からなり、砲撃に耐えられるよう重要な部屋はコンクリートや漆喰で補強されている。坑道の壁には建設時につるはしで削っていった跡が残されている。

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資料室には、戦争の跡の無残な死体などの写真がいくつか掲示されている。あまりにも残酷なので、ここでは1枚のみ紹介しておく。

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☝ 戦争写真の中でも有名な1枚・白旗の少女
少女の持った枝の先に白い布が括り付けられている。

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☝ 1945年3月、読谷海岸に集結した米艦隊。
『鉄の暴風』と言われたすさまじい艦砲射撃の後、米軍の上陸が始まった。

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☝ 南風原陸軍病院壕・20号入り口                    ☝ 壕の横には、ブーゲンビリアの花

1945年3月23日に米軍の空襲が始まると、沖縄師範学校女子部、県立第一高等女学校の生徒および引率教師237人が、看護補助のため動員されました。彼女たちは戦後、「ひめゆり学徒隊」と呼ばれます。(位置は那覇市の東側になります)

 
5月22日、首里城地下に置かれた第32軍司令部が摩文仁に撤退し、陸軍病院も南部へ移動することになりました。その際重傷患者に青酸カリが配られ、自決が強要された壕もあります。「南風原陸軍病院壕跡」碑には、「重傷患者二千余名自決之地」と刻まれていますが、この数字に確かな根拠はなく、犠牲者の数はいまだ明らかではありません。

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☝ 壕の近くに憲法9条の碑が                           ☝ 壕から撤退する時に埋められた薬品が展示
憲法9条守ろう…の立て看板は各地で見かけますが(特に高知では多い)石の記念碑は私も初めてお目にかかりました。すごい、感動です
薬品は戦後に掘り出されたものです。

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☝ 壕の中は真っ暗。懐中電灯が頼りです。  ☝ 昔、壕の崩落を支えていた柱が朽ち果て、今も残っていました。とにかく壕の中は、暗い、狭い、じめじめ、天井低くて、頭をごんゴン…私には耐えられない環境です。こんなところに大量の患者が押し込められ、ひめゆり学徒が看病していたなんて…ねえ。

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☝ ひめゆりの塔の前の壕を拡大した写真        ☝ ひめゆりの塔、その前に壕がある

「ひめゆりの塔」は沖縄戦で亡くなったひめゆり学徒の鎮魂のために、沖縄戦の翌年1946年に建立されました。
「ひめゆり」は学徒隊員の母校、沖縄県立第一高等女学校の校誌名「乙姫」と沖縄師範学校女子部の校誌名「白百合」とを組み合わせた言葉で、元来は「姫百合」であったが、戦後ひらがなで記載されるようになった。なお、植物のヒメユリとは関係がない。

第三外科壕(ひめゆりの塔の前にある壕)は19日朝、黄燐手榴弾などの攻撃を受け、壕にいた96名(うち教師5名・生徒46名)のうち、87名が死亡した。第一外科壕、第二外科壕は、アメリカ軍の攻撃を事前に察知し、19日未明までに地下壕から脱出した(そのうちの一部は第三へ避難、そして前述のごとく死亡)。しかしこれらの学徒隊もその後の激しい戦闘で多くが死亡した。そして、本島南端の浜に身を投げ、多くの自決者を出した。

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☝ 最初に建てられた(ひめゆりの塔)                 ☝ ひめゆり平和祈念資料館

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☝ ひめゆりの塔入り口のあこうの木               ☝ 魂魄の塔

この「魂魄の塔」は、沖縄県で最初に建立された慰霊碑で、「ひめゆりの塔」や「健児の塔」のルーツでもあります。 
「魂魄の塔」に眠る遺骨はすべて身元不明者です。
摩文仁や魂魄の塔がある米須を中心に、全国のすべての、都道府県の慰霊碑がありますが、
「沖縄県の碑」は存在しません。 あえてあげるならば、この「魂魄」が 沖縄県の碑といえるかもしれません。 沖縄戦で身内を失った者にとって、「魂魄の塔」は家族の墓と同じ意味をもっています。
 住民、軍人、米軍韓国朝鮮人、沖縄戦で死んだ約3万5千人の人々が 軍民、人種を問わず葬られた、沖縄最大の塔である。これが戦後もっとも早く、 住民の手で作られ、平和への想いを込めた塔として、他府県の慰霊碑とは多少異質である。

復帰後の1979年2月、 「摩文仁の丘」に国立戦没者墓苑が建立され、遺骨の殆どがそこへ移されました。 現在、「魂魄の塔」には、わずかな遺骨しか残されていません。
 

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元立法院議員の翁長助静(元真和志市市長)が、塔の命名を行い
「和魂(にぎたま)となりてしづもるおくつきの み床の上をわたる潮風」と碑文を記した。

翁長助静氏は、現沖縄知事・翁長雄志知事の父親です。

☞ ここには多くの都道府県の慰霊塔が建てられています。その中でも一番犠牲者が多いのが、意外にも北海道の部隊でした。その数10,787人断トツのトップでしたので、北海道の慰霊塔を掲載しておきます。

写真が多いので続きは次回に紹介します。








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辺野古支援に行ってきました④出発&普天間、嘉手納の基地

2018/01/31(水)
?十年ぶりの飛行機旅となりました。
昨年11月、三上智恵監督の『標的の島・風かたか』を『九条の会』で取り組んだ時、県レベルで沖縄支援ツアーのカンパと参加の訴えがあった。

今回の上映会で15,000円のカンパがあった。何となく私も参加したい気持ちになってきた。何よりも四万十市と友好都市関係の名護市の市長選総決起集会が予定に入っている。

辺野古基地を許さない、最大の保証となる市長選の応援、これだけは何としても行きたい。映画で見た辺野古の座り込み、そして高江ヘリパッドの訪問…どうしても行きたい。

まあ、それと沖縄はこの日本で私が足を踏み入れていない2つの県の一つ。そういうことで連れ合いさんの了解を取り、飛行機へと乗り込んだ。

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☝ 定員120名の中型ジェット機。初めて乗りました。
この日は曇り空、下界の見通しはあまりよくありません。しかし、九州を離れると少しだけ下界が見え始めました。

☞ 下界に見えたのは屋久島。上から見ると小さな島です。

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☝ 奄美大島はかなり大きいようです                ☝ こちらは徳之島だと思う

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☝ 沖縄本島に近づくと、次々と小さな美しい島々が見えてきた

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☝ 松山から2時間、やっと沖縄本島が見えてきました。
近づくにつれ、浅瀬のサンゴ礁と、それにぶつかる白波があちこちで見えました。
沖縄の周囲は、ほとんどが浅瀬のサンゴ礁が多いようです。

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☝ ついに那覇空港に接近、そして着陸。ここは国際空港、かなりの飛行機が駐機してます

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☝ 高知西南部の幡多地区からの参加者は4名。高知東部からの参加者は1時間遅れで高松空港からやってきます。待ち合わせまで1時間。空港の食堂で昼食をとりました。
私は、沖縄のソウキソバを頼みました。豚肉が入っています。麺はそば粉ではなく小麦粉です。

☞ 食後、空港4階から遠くを見ると、那覇空港の半分が軍港であることが分かります。戦闘機がずらりと並び、時々滑走路に入り飛び立ち、又着陸する姿が見えました。

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☝ 沖縄は緋寒桜が咲いていました。                ☝ 宜野湾の嘉数高台にある塹壕

高松組と合流。レンタカー2台に分乗して、早速だが、宜野湾市の世界一危険な基地・普天間とその先の嘉手納基地見学へ向かいました。
その1台のワンボックスカーに7人乗り、私が運転することになりました。

慣れない車で少し面喰いましたが、まあ無事に事故無く走りました。
これで私が自分の腕で運転していない県は、岩手県だけになりました。(笑)

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☝ 嘉数の丘展望台                                              ☝ 普天間基地

宜野湾市は辺野古に近い所です。先の戦争で米艦船はここに集結。艦砲射撃を浴びせ上陸を開始、沖縄北部と南部の2方面へ侵攻を始めたところです。
ここの高台は、沖縄最大の激戦地となった日本軍の基地跡です。いまは平和を祈る思いを、地球儀になぞらえた展望台が建っています。

嘉数の戦い(かかずのたたかい)とは、太平洋戦争末期の沖縄戦において、嘉数高台をめぐって1945年4月8日(7日)からの16日間に行われた戦いである。この戦いは沖縄戦最大級の戦闘の1つとしても知られるほどの激戦であった(前田の戦い他を含むことがある)。日本軍は低地に「反斜面陣地」を構築して米軍に劣る火力をカバーし、頑強に抵抗したため、嘉数は米軍からは「死の罠」「忌々しい丘」などと呼ばれた。

普天間基地…言わずと知れた有名な『世界一危険な基地』…住宅地の真ん中に公園がある…と見まごうように基地があり、轟音を立てて、戦闘機がオスプレイが飛び交います。
住むだけでも嫌な感じ、なのにここで、子供たちの保育、教育…なんだかねえ。自分の眼で見て改めてびっくりです。
しかも、沖縄各地で墜落、不時着、部品落下事故など起こしてるのは、すべて普天間基地所属だと言うから、もう驚きモモノキです。

普天間はきっぱり廃止。それしかありません。

IMG_6558.jpg これが悪名高きオスプレイ。この日は日曜なので飛びませんでした。手前に普通の軍用ヘリが駐機しています。
比較すると、オスプレイがどれだけでかいか分かるでしょう。
このでかい機体を飛ばそうとすれば、すごいエネルギーが必要です。
ぺらの回転の轟音と風圧、見るだけで、容易に想定できます。



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☝ 京都の塔の横にある碑文                              ☝ 日本軍が使用したトーチカの跡

沖縄の各地に日本本土から沖縄戦に参加し、戦火に倒れ犠牲になった人たちの慰霊塔がある。
多くの慰霊塔は糸満市摩文仁の丘に集中しているが、京都の塔は宜野湾市の 「 嘉数高台公園 」 にある。

京都の塔の碑文にはこう書かれてある。

昭和二十年春、沖縄島の戦いに際して
京都府下出身の将兵二千五百三十有余の人びとが
遠く郷土に想いをはせ、ひたすら祖国の興隆を念じつつ
ついに砲煙弾雨の中に倒れた。
また多くの沖縄住民も運命を倶にされたことは誠に哀惜に絶へない。
とくにこの高台付近は主戦場の一部として、
その戦闘は最も激烈をきわめた。


 星霜十九年を経て、今この悲しみの地に
それらの人びとの御冥福を祈るために
京都府民によって 「 京都の塔 」 が建立されるにいたった。
再び戦争の悲しみが繰り返されることのないよう、
また併せて沖縄と京都とを結ぶ文化と友好の絆がますます高められるよう、
この塔に切なる願いを寄せるものである。


 昭和三十九年四月二十九日

(注)特にこの碑文を掲載したのには意味がある。
沖縄戦で犠牲になった各都道府県の慰霊塔がたくさんあるが、碑文に現地沖縄の人々に思いをはせた碑文は、この京都の碑文以外見当たらないのだそうだ。
これは当時の京都の知事が『憲法知事』として有名だった、あの蜷川さんだったからできた碑文ではなかろうか…と私は思う。


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☝ 次は、嘉手納基地です。『道の駅かでな』にある地図です。基地の写真もここから撮りました。
赤線の中が嘉手納町。見ればわかりますよね。ここも住宅のど真ん中に基地があります。嘉手納の上は読谷村、下部が沖縄市になります。
普天間基地と少し違うのは、左側が海で、右側が森林であることです。

嘉手納の緑の部分は森林地帯です。ですが、それは米軍弾薬庫となっています。ひょっとすると危険極まりない化学兵器や原水爆が保管されてはいないでしょうか?
私の心配が杞憂であれば幸いですが。

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☝ この飛行機、戦車などを運べる輸送機のようです。
とにかくでっかい。まるで一つのビル程あります。

☞ 白い機体にはNAVYの文字があります。海軍の4発型プロペラ機です。おそらく偵察機でしょう。
 
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☝ 格納庫の前には戦闘機が                               ☝ この森が米軍の弾薬庫です

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あまりにも、内容が多すぎて、駆け足でしか紹介が出来ません。また機械があれば、一つ一つじっくりと調べてみたいものだと思っています。

とにかくこの日は、那覇まで引き返し、18時50分から20時過ぎまで『沖縄の歴史と闘い、情勢』について、沖縄革新懇の宮城さんの講義を受けました。

それからホテルに入り、幡多の仲間と町の居酒屋に繰り出し、写真のような沖縄料理にかぶりつきながら、明日からの奮闘を誓い合いました。

ホテルに帰ったのは12時前、風呂にも入らず、そのままベッドに倒れこみました。
それじゃ~ またね~






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辺野古支援に行ってきました③辺野古の座り込みと高江のヘリ基地

2018/01/30(火)

沖縄について3日目・23日はレンタカー2台に分乗、朝7時半にホテルを出発。
9時半に辺野古・キャンプシュワブに着きました。

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☝ 基地前に着くなり、ゲート前でマイクが怒鳴り声をあげていた。抗議の人と機動隊が入り乱れてもめているようだ。なんだ? と思いしばらく待つと、機動隊員に囲まれ引きずられて、1人のおじいがやってきた。
後で元県議の具志堅さんだと新聞に載っていた。

☞ 我々高知勢は、とりあえず基地前の座り込み用のテントで待機。今日の行動の内容と注意事項について話を聞いた。まあ色々聞いたが、くれぐれもと注意されたのは、機動隊による座り込みの排除と抗議の時は、絶対に耳より上に手を上げないこと、あまり過激な言葉で機動隊を刺激しないこと…この2点を注意されました。

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☝ 映画、標的の島やニュースなどでよく見かける男…山城博治さんも、あいさつ激励に駆け付けてくれ、帽子を振り回しながら「 ウィシャル・オーバー・カム」「今こそ起ちあがろう」を熱唱してくれました。釈放条件に、あまり現地に近づかないこと、演説をしない…などの条件が付けられているため、ゲート前では本人はマイクを握らなかった。

☞ その後、高知勢のあいさつで、まずは名護市長選激励の為用意した『寄せ書き』(なかなかの傑作)を披露し、私がマイクを握り簡単な連帯の挨拶を行いました。
その後、高知のよさこい踊りを鳴子両手に披露し、喝さいを浴びました。

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☝ 向かいの基地からは、機動隊らしき男が、双眼鏡で我々の動きを監視しています。
ここには我々以外にも東京勢や岩手、川越など各地から支援に駆け付けた人たちが約100名ほど参加していました。

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☝ 12時前、今日2回目の埋め立て用石材等の搬入が始まります。私も含め約50人ほどが、ゲート前に座り込みました。

☞ やがて、トラック部隊の先頭が見えてきました。さあいよいよです。

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☝ そこへ米軍車両が通りました。この写真の1台前で写真に撮れなかったが、タイヤがパンクしていました。そのまま走るのは、道交法違反です。一斉に米軍車両を止めさせろ…と抗議の声が上がりましたが、その場の機動隊は知らん顔です。日本の警察は米軍には一切口出しが出来ないんだと、改めて思いました。

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☝ 機動隊がゲート前で座り込む我々に退くように声を掛けます。マイクを持った座り込みのおっちゃんと、機動隊のやり取りが続きます。

☞ 突然、機動隊が突撃してきました。
座り込んでいた年寄りや女性たちを、次々と強制的に排除していきます。

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☝ 高知市から来たおんちゃんも排除されました。   ☝ この人はどこから?

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☝ 次々と排除され、やがて私の番に…『おい、俺は邪魔にならんところにいるのに、なんだお前ら…』と少し抵抗しましたが、問答無用で排除されました。

☞ 先ほど排除されたおっちゃん、機動隊員に詰め寄り猛烈な抗議の声を上げます。
左側に見えるおっちゃんも加わり、ずっと1時間ほど、しつこく抗議し続けました。すごいねえ。

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☝ 我々はトラックの出入りがよく見えるゲートの反対側に回り抗議の声を上げ続けました。
ゲートの前に並んでいる青い服は警察ではなくて、アルソックの警備員だそうです。

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☝ そのアルソックの警備員が公道にずらり並ぶトラックを、優先通行できる一般車両を停止させて、次々とトラックをゲートの中へ入れていきます。
トラックの後ろ、そして反対側の車線には止められた一般車両がずらりと並んでいます。
ここでも大きな抗議の声が沸き上がりました。
『トラックの列を脇に寄せて、一般車両を優先させろ』『警察がいるのに何で何の権限もないアルソックが車両を止めるんだ』…機動隊も防衛局も何の返事もしません。

☞ おばあたちが何回か、侵入するトラックの前に体を張って突入していました。たちまち機動隊に捕まって排除されます。それでもまた次が飛び込む…そんな光景が何度かありました。

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☝ ゲートの前で、マイクを持って抗議する人たちに、まるでカニが泡を吹くように、終始ぶつぶつと、よく聞こえない声で、抗議の妨害をしている、サングラスにマスクの怪しい男が防衛局職員らしい。

☞ 右の2人も防衛局職員だ。ただ何もしないで、1日ぼう~っと立っているだけで給料がもらえるんだってさあ。仕事のない我々には、実にうらやましい限りだ。

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☝辺野古の基地づくりが進むキャンプシュワブ。そのゲート前に土佐の高知の『なかむら九条の会』の黄色の旗が誇らしそうにはためいている。

☞ そこへ突然、ワーワーとがなり立てる五月蠅い車がやってきた。
例によって真っ黒の車体に日の丸をつけた、ホントにダッサイ車だ。沖縄の右翼は『家庭内手工業』なのか?  運転手はおばちゃんで、それでも制止する機動隊にかみついていた。その横のおっさんは、もうお爺ちゃんだが、『おい、山城出てこい。なんだかんだとわめいていたが』やがて帰っていった。右翼の車には,まるで護衛車のようにパトカーが2台も付いていた。このパトも何にも仕事してない。結構だねえ。こんなので飯が食えるのか?警察は?

余りにも頭に来たので、マイクに負けないくらいの大声で30分ほど、怒りの抗議を上げました。連れや他の人にも、まあまあと制止されたので,辞めましたが、あれから1週間まだ声が枯れています。(笑)

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☝ ここが埋め立て予定地の辺野古沖と大浦湾だ。
ここはジュゴンのえさ場としての海藻が豊富なところだ。又絶滅が危惧されるサンゴの生息地でもある。会場のフェンスを見てほしい。この美しい海が埋め立てられ、戦争と人殺しの為の要塞基地が作られるなんて、沖縄人でなくとも、とても許せない。米軍の横暴と頼りない日本政府への怒りがマグマのように噴き上げてきます。

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☝ 高台の上から辺野古を望む高知勢                ☝ その横には、こんな看板が…近くの幼稚園児と父母が書いた看板だそうです。看板は他にもいくつか。

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☝ ここは高江のヘリ基地の入り口です。昼食はパンで済ませ、一路高江へと向かいます。予想よりは少し遠かったようです。1時間半ほどかかったかな?
ヘリ基地の入り口には、10人以上の警備員が居ました。外人もいるので米軍か?と思いましたが、雇われの警備員らしい。
横の立ち木にも、横断幕がかけられている。

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☝ 金網の向こうに米国海兵隊施設…立ち入り禁止の看板が

☞ 金網沿いに丘に登ってみると、広大なヤンバルの自然林が見えている。ここにも貴重な鳥たちが住んでいる。人の手の入っていない大切なヤンバルの自然林を切り開き、破壊し、使いにくい基地は返してやるから感謝しろ!! と米軍と政府は言ってるらしい。
冗談じゃない…こんな自然の宝庫をぶっ壊して、オスプレイを100機に増やし、住宅地の上をガンガン飛ばされたんじゃやってらんないよ。

アメリカでは、貴重な生き物がいる地域は開発も基地化も認められないそうではないか。どうして沖縄では子供たちの生きる保育所や学校の上を軍用ヘリが飛び回るんだよ。
全ては、アベ政権のだらしなさにある。米軍にきちんと物を言えない、奴隷根性…それが翻って弱者には、厳しくつらく当たる…もうアベ政権は腐ってるね。

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☝ 真ん中の女性は伊佐村議…厳しい戦いに耐えて勝つまで頑張りぬく、現地の人たちの戦いにはホントに涙が出そうになる。

☞ また22日に韓国の民主化に貢献したカトリック司教チ・ハクスンさんにちなんだ「チ・ハクスン正義平和賞」にヘリ基地反対協議会が選ばれ表彰を受けたことを、稲嶺市長の決起集会で触れたが、この写真の帽子をかぶった人が、韓国チームの代表らしい。
名前は忘れたが、この人、60歳から独学で日本語を勉強して、今はもう、まったくのぺらぺら。すごい人です。現在80歳くらいかな。後ろの方に見えるのがチームの人たち。

国は違っても、共存共栄、互いに手をつないで生きていくのが一番いいと語っていました。





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辺野古支援に行ってきました②名護市長選・稲嶺進総決起集会

2018/01/28(日)
辺野古支援ツアーは、21日からですが、今回は23日の報告です。日程の後ろから順番の変わった報告になってしまいました。

23日は朝から辺野古新基地前のトラックによる資材搬入阻止のため、高知からの参加の15人の1人として私も参加しました。また東村高江のヘリ基地反対協議会も訪ねました。
ここで、いつもニュースや映画『標的の島』で見るような、機動隊による強制排除で手足を抱えられ排除されるなどの経験をしました。…まあ、その話は次回として、今回は、この日の夕刻に行われた《稲嶺進必勝総決起集会》に参加した様子を報告します。

高江から1時間ほどで、本日の会場、名護市の『21世紀の森屋内運動場』へ着きました。会場へ車を止め、軽く夕食をとろうと、周辺を探しましたが、この辺は全く食堂を見かけませんでした。20分ほど歩いて、やっと1軒のうどん屋さんを見つけ食事が出来ました。

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☝ 演壇横には、目立つところに、3年前の沖縄知事選に応援に駆け付け、その後亡くなられた菅原文太の奥さんから、大きな花束が届けられていました。(メッセージは省略します)
菅原文太が先の知事選で語ったことを掲載しておきます。

政治の役割は二つあります。
一つは、国民を飢えさせない事、安全な食べ物を食べさせること
もう一つは、これは最も大事です。絶対に戦争をしないこと !!!

     うみも、やまも
     くうきも、かぜも
     すべて国家のものではありません
     そこに住んでいる人たちのものです。
     辺野古もしかり。
     勝手に他国に売り飛ばさないでくれ


開始時刻には、会場は満杯、主催者発表では3850人とのことでした。
わずか人口6万人の市でこの数…他市からの応援がありとはいえ、すごい数です。

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☝登壇した 稲嶺市長 は、時に方言を交えながら、これまで2期の実績と、3期目の抱負を語り、名護市民の為に、否、オール沖縄の為に絶対に辺野古新基地は作らせない、翁長知事と私が市長でいる限り、政府がいくら基地建設をごり押ししても、新基地は完成できない…と言いきりました。詳しくは下記掲載の報道ニュースをご覧ください。

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☝ 壇上には、知事を始め、オール沖縄の国会議員、各界代表が、ずらりと勢ぞろい。
他県の市長選ではありえない光景です。
それだけ、名護市長選の存在意義が大きいということを示していると思いました。

『何が何でも勝つ』壇上でのすべての発言者の暑い暑い熱気が会場に伝わってきました。
また、この日、立憲民主党が稲嶺支持を打ち出しました。注目は同党に移ったばかりの有田芳生が登壇していたことです。

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☝ 応援に駆け付けた、前日に保守の牙城を切り崩し、南城市で沖縄最強の相手に65票差で競り勝った、瑞慶覧長敏(ずけらん・ちょうびん)氏。この勢いを名護市長選へ、そして年末の知事選へつなごう…と訴えると、会場は太鼓と指笛と歓声に包まれました。
それにしても沖縄の選挙は、ずいぶんと派手でにぎやかです。会場に余地があれば群衆は踊りだしそうな、そんな雰囲気を感じました。

☞右の写真は市議補欠選挙(欠員1)で、同市辺野古の新基地建設に対し抗議行動を続ける「ヘリ基地反対協議会」の安次富浩共同代表。稲嶺進市長の市政与党の立場で立候補する。安次富氏は「自然を壊してまで軍事基地は造らせない」と話し、また22日に韓国の民主化に貢献したカトリック司教チ・ハクスンさんにちなんだ「チ・ハクスン正義平和賞」にヘリ基地反対協議会が選ばれ表彰を受けたことを、記念のメダルと盾を示しながら平和への決意を語りました。

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☝ 壇上で手をつなぐ…左から瑞慶覧長敏新南城市長、稲嶺候補、安次富氏、翁長氏

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☝ 最後に『参加者全員によるガンバロウ3唱』
沖縄の選挙で、もう一つ驚いたのは、マスコミが全員壇上に上がり、会場の様子をカメラに収めている様子にびっくりしました。

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☝ 集会の終了後、稲嶺さんの選挙事務所を訪ね、高知勢が作った寄せ書き…クジラとジュゴンが仲良く泳ぐ姿をパッチワークで縫い込んだ傑作です。他にも色紙の寄せ書き、カンパなど手渡し、必勝の激励を行ってきました。
なお、名護市と四万十市は『友好都市』の関係にあります。私が『友好都市、四万十市から応援に来ました』と手を差し出すと、稲嶺氏は『おーっ』と声をあげながら、握手を交わしてくれました。
そして、27日には、前四万十市長の田中全さんが応援に入ることを伝えました。
ホテルに帰り着いたのは午後10時、琉球新報の女性初の政治部長・島洋子さんがホテルを訪ねてくれた。島さんとは2015年以来、何度か高知に足を運んでもらい、沖縄情勢等について講演を開いていただいた。それ以来のお付き合いだ。
この晩8時ごろに、今月3度目の米軍ヘリ不時着事件が起こり、沖縄県民の怒りがいや増した。
そんなこともあり、島さんは時間がないとのこと、30分ほどの歓談交流で帰って行かれた。とにかく基地あるが故の事件が多く忙しいようだ。

いよいよ今日から名護市長選が始まります。
みなさん、名護の為、沖縄の為、日本の為、ひいては世界平和の為に、この選挙絶対に負けられません。現地に皆さんの知人があれば、必ず稲嶺勝利の訴えを、よろしくお願いいたします。

稲嶺さん3選必ず  危ない新基地造らせない 名護市長選へ総決起大会




名護市長選きょう告示  稲嶺ススム市長必勝へ6党が勢ぞろい




【琉球朝日放送】ヘリ基地反対協議会にチ・ハクスン正義平和賞を授与


存在自体が憲法違反の自民党…あなたは自民党を認めますか?

憲法は国民を縛るものではない。時の権力者や公務に携わる者が権力の乱用をしないために、その権限を逸脱し、国の主権者たる国民の利益・権利を侵害することが無いように、99条で権力者の権限を縛っているのだ。

第一〇章 最高法規
第九七条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。
第九八条 この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。
(2)日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。
第九九条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

しかるに自民党、アベ内閣はどうなのか?


自民党・2010年綱領にはこうある

2.我が党の政策の基本的考えは次による

(1)日本らしい日本の姿を示し、世界に貢献できる新憲法の制定を目指す

党の政綱・1995年はこうだ

六、独立体制の整備
 平和主義、民主主義及び基本的人権尊重の原則を堅持しつつ、現行憲法の自主的改正をはかり、また占領諸法制を再検討し、国情に即してこれが改廃を行う。
 世界の平和と国家の独立及び国民の自由を保護するため、集団安全保障体制の下国力と国情に相応した自衛軍備を整え、駐留外国軍隊の撤退に備える。

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憲法違反の自民党・アベ内閣
1、国の主権者たる国民の意思に反し、97条の国民の権利を侵す政策をとり続けている。
2、特定秘密保護法や安保関連法案、共謀罪など、98条に反する憲法違反の法律を強行採決。
3、最も大切な憲法擁護義務を守らない。
4、行政府の長(安倍)が改憲を語り、立法を図ることは三権分立に明確に違反する。

国の最高法規・憲法を守らない。物事の道理を知らない。変革のルールを守らない。国民の意思を無視。民主主義も知らない…そんな政党・自民党は、この日本に存在してはならない…と私は考えます。



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辺野古支援に行ってきました①奇跡の帰宅

2018/01/26(金)
予告通り、1月21日から3泊4日、沖縄辺野古の支援ツアーに参加してきました。
私が、71年の人生で、これまで自分の車で走っていない県が2つありました。
沖縄は、その意味でも1度は行きたいと思っていた県です。
もちろん、本音は、日本の苦難を一手に押し付けられている、沖縄の現実を映像ではなく、自分の2つの眼でしっかりと見極めることにありました。

初日に、普天間基地、嘉手納基地を訪ねたのを皮切りに、様々な戦跡を訪ね、人々と交流いたしました。そのことは、何回かに分けて徐々にご報告いたします。

今回は、まずは帰り旅からご報告します。

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☝ 那覇空港を『我が物顔』で離発着する軍用機

那覇発松山行の旅客機は、予定時刻の13時15分になっても、搭乗が始まりません。込み合って予定より遅れる…とアナウンスがありました。
なんでだろう? と思っていたら、30分遅れで搭乗し、旅客機が滑走路に入り、その訳が分かりました。
滑走路には、ずらりと民間機が出発の順番を待っていました。
その旅客機を待たせて、次々と軍用機が離発着しているのです。
軍用機は、特に緊急発進をしているようには見えません。
ずらりと並んだ民間機を差し置いて、軍用機の離発着訓練をしていたのです。
以前に起きた自衛艦と漁船の衝突事故を思い起こしました。まさに『そこのけ、そこのけ軍隊が通る』の状態が目の前で起きていたのです。
轟音を発し、離発着する軍用機にすさまじい怒りが沸き上がりました。
この時は、結局、出発が1時間近く遅れたわけですが、これより非道な事態が、沖縄では日常的に起きているのです。

沖縄の人々は、実に辛抱強い。よく辛抱しているなあ…と感心することしきりでした。

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☝ やっとこさ、松山行が離陸体制に入りました。

機体がふわりと浮かび上がりました。その瞬間をカメラに収めましたが、皮肉にもその横には、多数の軍用機が駐機していました。
すごい数です。この他にも、ヘリや輸送用の軍用機も駐機していて、そこでも離発着訓練を続けていました。



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☝ 空港から海上へ出たところ                          那覇の市街はすぐに見えなくなりました


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☝ 九州の町が見えてきました                               火口がいくつも見えます

行きも帰りも、天候は曇り空。帰りは九州までは見えるのは雲ばかりでした。
九州に入り,やっと下界が見えてきました。
だけど、ここはどこの町かねえ? 私はあまり飛行機には乗らないので、左の町も右のお山も、どこなのか???です。
火口は霧島当たりなのか? それとも阿蘇の当たりなのか?
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☝ 四国の八幡浜の町が見えてきました。         松山市内。着陸はもうすぐ


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☝ 無事着陸しました

羽を上げ空気抵抗を最大にし、逆噴射で機体をコントロールします。
何とか無事に帰ってきました。
しかし、ホッとしたのは束の間で、実はここから、最大の危機が訪れたのです。

最大の危機…雪の峠道
沖縄を発つときには、半そでシャツでしたが、松山の気温は何と0度でした。慌ててジャンバーを着込んでも寒い寒い…。急いで自分の車に乗り込みましたが、その時はまだ本当の危険に気付いていませんでした。
同行者が他に3人もおり、スマホも持ってるとのことで、交通情報も簡単にわかるだろうと思っていたのです。

市街地をしばらく走り、伊予のICから高速道に入りました。通行止めの表示もないし、そこらはまだ雪も降っていませんでした。
ところが早くも八幡浜辺りで雪がちらつきだし、すぐに高速道通行止めの表示が。おいおい、もっと早く表示を出しといてくれよ。叫んでも遅い。一般道に降りましたが、しばらく走るとどうも、街の様子が変だ。この前変えたばかりのナビに従って走っていたのだが、どうも方向がおかしい。

八幡浜のフェリー乗り場が見えてきて愕然としました。国道56号線を大きく外れて海沿いに出てしまったのです。慌てて引き返し、ここからは記憶と標識を頼りに、一般道を180Kも先の四万十市を目指します。

飛行機が遅れ、その上、道を間違えて、だんだんと日暮れが迫ってきます。
雪の中の一般道…いつ、どこで通行止めになるかもわからない。気は焦るばかりです。
そして、その時、頼みのスマホでの情報取得が不可能であることが分かりました。
なんと保持者がデジタル不適合者だったのです。

スマホは持ってるが、メールと電話だけしか使えないということが判明したのです。
おいおい、そんなこと早く言うといてよ。。。。
とにかく、こうなりゃ行けるところまで行くしかない。下手したら今夜は雪の中のどこかで…つまり立ち往生した時点で泊まるしかないよ。そのことをみんなに納得させて、ひたすら四万十を目指しました。

宇和島の手前で、雪が激しくなってきました。そこに峠がありました。まだ轍の後は黒く、何とか走れます。峠を越えても雪は激しくなるばかり、万一に備えてガソリンスタンドで満タンにしました。

宇和島の市内は、夕方のラッシュと重なり大渋滞。その中をナビ君の示す方向とは違う道を慎重に選び走ります。チェーンは持っていない、ラッシュとナビと四万十たどり着けるかとの不安と雪道への不安で、胃が痛みだしました。(笑)

なんとか宇和島市内の渋滞を抜け出し、道は単純となり、ナビの不安は減りましたが、雪はますます激しくなり、路面が凍り始めました。加速時、ブレーキの時、タイヤの滑る感覚が伝わってきます。ちょうど、津島行の路線バスが前を走り、その後をついていけば、道は迷わないな…と一安心したのもつかの間でした。
バスは頻繁にバス停での停車を繰り返します。その度にブレーキを踏み車が滑ります。氷道独特のゴツゴツゴツの感触がブレーキに伝わってきます。ぶつけないように車が滑らないように車間距離を大きくしました。

そして最大の難所…宇和島市から抜ける峠道に差し掛かりました。
当初から一番警戒していた峠です。ここの坂が一番長くて、雪の積もりやすい場所なんです。
のぼり道の前方に突然黄色いランプが点滅しているのが見えました。
バスは雪タイヤを履いているらしく、すーっと右に出て追い越していきました。
よく見ると乗用車が1台止まっていて、その後ろを軽トラがそろそろと追い越しをかけています。しかし、軽トラ君、腕が悪いのか、車が悪いのか、右に左に滑っています。
徐行しながら様子を見ていましたが、だんだん前方との距離が近づいてきます。止まるか追い越すか決断が迫ってきました。

しかも運の悪いことに対向車が迫ってきます。私の車も、いったん止まってしまうと、次に発進できるかどうか判断が出来ません。下手すると、そのまま立ち往生です。
ええ~い、ままよ。わずかな差で対向車とすれ違い出来ると判断し、スピードを緩めつつも、車を止めないように追い越し車線へ入りました。

乗用車を追い越し、対向車をかわし、軽トラを追い越しにかかると、なんと軽トラが右に滑ってきます。思わず車内から悲鳴が上がりましたが、軽トラ君、何とか体勢を立て直したようで、ぶつからずに済みました。

さて、その後は、徐々にスピード上げ峠を目指します。(私の経験では、雪の上り坂では、下手に徐行するより、前方に車がいない場合は、ある程度のスピードを確保した方が、登りやすい)
そして、なんとか前方にトンネルが見えた時には、大きく息を吐きました。
大体ですが、トンネルは峠の頂上にある場合が多いのです。つまり、これから先は下りになる…ということです。下りは、滑らないように気をつければ、なんとか前方へ進めるから、一安心でした。

その後、もう一度雪の舞うところがありましたが、ほとんど通常運転に戻ることが出来ました。



夜の10時ころに四万十市へ到着。同乗者たちを、何とか無事に家に帰すことが出来ました。
沖縄でのハードなスケジュールとこの夜の運転で、心身ともにくたくたとなりました。

帰宅して、1日置いて、今日のブログ更新です。まだ頭のどこかが、ぼんやりとした状態です。
次回から、私の見てきた沖縄について記載します。




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simanto114

Author:simanto114
残された人生、命ある限り、ある程度世の中のお役にも立ちつつ、海・山・川に戯れながら生きたい…と結構欲張り爺さんのぼやき日誌です。

よろしくお付き合いください!

のんびりとお付き合いを
「あしたまにあーな」…「明日できることは今日はやらない」がわが人生訓です

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