今年1月24日は、地元の偉人・幸徳秋水の刑死110年に当たる。生誕150年の記念すべき年である。24日は昼から、秋水の墓前で大逆事件に関わる支援者たちが集まって、墓前祭が行われる。
ただねえ、生憎のコロナ禍の中で、予定していた記念講演やイベントは、ほとんど中止となってしまった。残念だが仕方が無かろう。
今はもう大逆事件なんぞ、当時の政府のでっあげ事件であることは、広く世間に知られている。
当時の活動家たちの一部の者の跳ね上がりを、山県などの醜悪なる権力者たちが利用して、絶対主義的天皇制の下、国民の抑圧を図るために、反戦・平和、自由・平等・博愛の実現と、そのために社会主義を目指そうと言う幸徳らの主張を社会から一掃するために、多数の活動家たちが逮捕され、完全な闇裁判で1人の証人も登場させず、26人が有罪判決を受けた。内24人が死刑、2人が有期刑となった。翌日天皇による恩赦と言う形で12人が終身刑となったが、12名は判決から僅か6日後に処刑される…という、今ではとても信じられないような乱暴極まる政権によるでっち上げ犯罪であった。
戦前は勿論、戦後においても社会から迫害を受け続けてきた、幸徳秋水は、20世紀最後の2000年12月、立ち上がった地元の有志達に押されて、当時の中村市議会全会一致で、【幸徳秋水を顕彰する決議】が行われた。
地元において、一応の名誉回復はなされたが、国は、大逆事件関係者の刑罰について取り消そうとはしないのである。
この戦いは、未だ終わってはいない。国が大逆事件関係者に、きちんと謝罪し、刑の取り消しを行うまで、この戦いは続くだろう。
この記念すべき年に、地元の幸徳秋水を顕彰する会は、次に掲げる秋水の「吾人は飽くまで戦争を否認す」の一文を記念碑に刻み、幸徳秋水の墓がある正福寺境内に建てる予定です。
石碑に刻むのは、下記の青い字で表記している部分となります。
この計画には、全国から多くの募金が寄せられています。
吾人は飽くまで戦争を否認す(1904年1月)…幸徳秋水 …前略 我同胞中或者は戦勝の虚栄を夢想するが為めに、或者は乗じて奇利を博せんが為めに、 或者は好戦の慾心を満足せしめんが為めに、焦燥熱狂、出師を呼び、開戦を叫び、宛然悪 魔の咆哮に似たり、吾人是に於て吾人同志の責任益々深きを感ず、然り、吾人が大に戦争 防止を絶叫すべきの時は来れり。 吾人は飽くまで戦争を非認す、之を道徳に見て恐る可きの罪悪也、之を政治に見て恐る |
戦後75年がたち、またぞろ恥知らずな権力者たちの、戦前回帰の不埒な策動が始まっています。
改憲による人権無視の明治憲法の復活、9条を無くして再び戦争のできる国造り…まったくもって信じられないような動きが始まっており、これに、戦争の恐ろしさを知らない若者たちが、「愛国心」だとか「国を守る」だとかの言葉に乗せられて、自民党を支持する動きがあることが、私には嘆かわしくてなりません。
コロナ禍という、国民を苦しめる。この国難の状況下においてさへ、これを利用して首相に絶対的な権限を与える「非常事態宣言法」を成立させようともくろむ自公政権は、断じて信じてはならないと私は思います。
今回の菅政権の「刑罰を含むコロナ特措法」が、その露払いとならないよう警戒したいものです。
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毎年1月は、師走と並んで、何とも慌ただしく過ぎていきます。
私にとって、1月は大阪で可愛い孫ちんたちと遊び、元気と力を充電する月として大切にしていますが、私が現在「生きがい」にしている、「9条の会」の総会がある月です。
今年の総会では、議案の討議と共に、映画『ザ・思いやり』を観賞…学習する予定です。
1月と言えば、ここ四万十市で忘れてはならないのが、地元の偉人・幸徳秋水の墓前祭です。
幸徳秋水と言えば、全国にもご存知の方も多いと思いますが、1911年(韓国併合の翌年)、天皇主権国家の謀略により、1月18日、でっち上げの大逆罪により24名が死刑判決を受け、翌日、クソ天皇の恩赦とやらで、12名が無期刑に、そして判決からわずか6日後の1月24日、早朝、事件の首魁とされた幸徳秋水を始め、12名が死刑となりました。
今のアベ政権による、政治の私物化、独裁政治の行きつく先が、幸徳秋水等の冤罪事件と結びつく、そんな思いがするのです。
今日の高知新聞に、幸徳秋水に関する記事が掲載されていましたので、以下に引用します。
シャンパンの味 間もなく巡りくる1月18日は109年前、幡多出身の幸徳秋水ら24人が「大逆事件」で死刑判決を受けた日だ。彼が首謀し天皇暗殺を集団で企てたとされた同事件は、実際は時の権力者たちが目障りな社会主義者、無政府主義者を一掃しようとでっち上げたものだった。 裁判は開廷直後に非公開となり、1人の証人調べもせず1ヶ月で大量の死刑判決を出した。幸徳は「検事の調べを十数回受けたが、調書はことごとく私の申し立てと違っている。検事が「こうであろう」と言った言葉が、私の申し立てとして記されている。多数の被告も皆同様だったろう。実に危険ではないか」と陳述したが、裁判官たちは取り合わなかった。 判決後、裁判官は大審院長の部屋に集まりシャンパンで乾杯、書記給仕に茶菓子を振る舞ったという。検察を指揮した平沼騏一郎は10年後に大審院長、やがて首相になり、第2次世界大戦のA級戦犯となった。 無実で殺される側はたまったものではない。処刑された内山愚堂の棺に妻はしがみつき号泣。棺を開けることすら禁じられた弟は火葬場でたまらず「兄に違いないか一目見たい。誰が止めても俺は見る」と叫んだ。大金槌とノミで棺をこじ開け、兄を無言で見つめ「ああ、兄だ。得心しました」と語ったという。遺族や特赦された人もその後は過酷だった。生き残った幡多の坂本清馬氏の再審請求特別抗告を最高裁は1967年に棄却。司法機関としての検証、謝罪は全くないままだ。 逃亡したゴーン被告について森雅子法相が「司法の場で正々堂々と無罪を証明すべき」と発言。ゴーン被告側から「有罪の証明をするのは被告ではなく検察だ。あなたの国はこの原則を無視しており、間違えたことは容易に理解できる」と皮肉られた。残念ながら100年以上そうだと、ゴーン被告の振る舞いを苦く感じつつ、思ってしまう。 |
高知新聞もねえ、時には大マスコミと同じく権力者の立場の報道をすることもあるのだが、また時には、市民的立場で、こんな記事も書いてくれるのだ。(笑)
政教分離をうたう現憲法下で、オカルト宗教と右翼会議に、ほぼ全員が加盟し、パワハラ、セクハラ、カネハラに満ち、そして反社勢力と仲よしの「ほぼ犯罪者集団」と化しているアベ政権。
1日も早く、この政権を葬らないと、再び、あなたや私が、幸徳秋水の二の舞になる日が来るのではなかろうか?

▲ 毎日、庭にやってくるジョウビタキ

▲ 宿毛湾には、寒さにも負けず、ウミウの群れが
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昨日12月13日は幸徳秋水の師・中江兆民の亡くなった日であった。
中江 兆民は、日本の思想家、ジャーナリスト、政治家。フランスの思想家ジャン=ジャック・ルソーを日本へ紹介して自由民権運動の理論的指導者となった事で知られ、東洋のルソーと評される。
坂本龍馬⇒中江兆民・板垣退助⇒幸徳秋水…と引き継がれてきた《土佐の自由民権の思想》は、明治維新後の民権運動としては、他県とは比較にならない、実に民主的な運動であった。
長州や薩摩の政策でなく、この土佐の自由民権が、世を制していたらまた違う日本の歴史が作られただろうに…と、最近の長州派閥の成れの果て・アベ政権を見ていると、ついついぼやきたくなる。
吉田松陰の跡を継いだ元老(元凶ではないか?と私は思うのだが)・山懸有朋らが主張した富国強兵、外国侵略・植民地化政策&絶対的君主制確立のために、当時、もっとも邪魔になったのが、社会主義運動を提唱するジャーナリスト・幸徳秋水であった。
幸徳一派を除去するために、山懸は稀代の悪党・平沼騏一郎を使い、全く関係のない3つの事件を強引にくっつけ、一つの大冤罪事件…《大逆事件》を作り上げ、暗黒裁判の下、たった1人の証人尋問も許さず、被告とされた24人に死刑、2名に有期刑という判決が下る…眞に異常な裁判であった。
そして、その翌日に天皇による恩赦などと恩着せがましい理由をつけ、死刑12人、無期懲役12人、有期刑2人となった。このうち高知県出身者は5人。幸徳秋水、奥宮健之が死刑、坂本清馬、岡林寅松、小松丑治が無期懲役であった。
《大逆事件》の犠牲者たちは、2000年に議会で顕彰決議が行われた幸徳秋水だけでなく、新宮市では今年1月、大石誠之助を名誉市民にすると発表しました。
その他の犠牲者も、名誉回復の運動が各地で進んでいますが、地域ごとに強弱があり、また、秋水や誠之助も名誉は回復されたとはいえ、裁判が取り消されたわけではなく、歴史的には犯罪者として記録が残されているわけです。
彼らの本当の名誉回復の為には、彼らの判決を取り消し、国家として冤罪の被害者たちにお詫びをさせなければならないでしょう。しかし、現在のアベシンゾウや政府のアホ大臣どもに、いくら訴えても、何の効果も生まれないことは確実です。もう少し、時期を待たねばならないでしょう。
兆民・中江家のご先祖墓の清掃
兆民は1901年12月13日、大阪市で死亡。お墓は東京・青山霊園にあるそうです。
今、兆民の子孫は高知にはいないので、自由民権友の会の皆さんが、毎年、兆民忌を開き、ご先祖の墓(筆山墓地に2か所あり)の草刈り清掃を行っています。
私も今年初めて誘われて、中村から4人、兆民忌に参加してきました。何しろ地元中村の偉人・幸徳秋水の先生ですから行かないわけにはいきません。
軍手、鎌持参とのこと…その意味も墓所についてすぐ分かりました。(笑)

▲ 筆山墓地入り口のお向かいに、土佐藩主山内家歴代の菩提寺がありました。
私は、個人的には山内家は嫌いですが、なんとお寺の宗派は、私と同じ禅宗・曹洞宗ではありませんか。(笑)

▲ 駐車場に車を置き、10分ほど歩くと中江兆民家墓所の案内板があります。
墓所はご覧の通り、一面笹に覆われています。

▲ みんなで笹を刈り清掃後、般若心経を唱え、尺八で追悼しました。

▲ 北側の中江家墓所から、更に南側へ20分ほど移動すると、一面草むらの中に、2か所目のご先祖墓を発見。(笑)
草刈りしましたが、ここは昨年火事で一面燃えたそうです。左側に福島で被災した桜の苗木を植樹していたそうですが、桜の木も燃えました。その燃え後から新しい芽が出てきて、今枝が茂っています。

▲ 筆山は山内家の墓から市営、そして個人の墓と、ほとんど全山、墓所となってるようでした。
しかし、気がかりなのは、親族が居なくなったのか?草むらに埋没している墓も結構多く見られることでした。
墓所の往復、下を見ると、高知の市街が一望できます。奥の方に見える海は浦戸湾です。
大逆事件の犠牲者・小松丑次

▲ 中江家の最初の墓へ向かう途中に、《大逆事件》犠牲者の1人…小松丑次の墓があります。
通りから少し裏の道へ入ると、倒木の先の日陰の場所に丑次の墓が見えました。

▲ 大逆事件の犠牲者、小松丑治と岡林寅松2人は高知市生まれで同じ小学校の同級生であった。ともに神戸に出て、神戸平民倶楽部を結成して活動する中で、大逆事件に連座させられた。
死刑判決を受けたが、翌日無期懲役に減刑され、20年間入獄したあと、仮釈放された。以後も差別と偏見の中で不遇の生活を送り、小松は昭和20年、岡林は昭和23年、没した。
2人の墓は高知市内のそれぞれ別のところにある。(幡多と中村から)
大逆事件の犠牲者・岡林寅松

▲ 岡林寅松の墓は、高知城の近くにある。その近くには、民権運動の植木枝盛のご先祖の墓もある。(追記…案内板の下の黄色い丸い球は、人魂ではありません。(笑) 単なる逆光による光のいたずらですが、なんかねえ、寅松の魂が我々に冤罪を晴らしてくれ…と訴えたようにも思えましたねえ。)
岡林寅松と小松は、たまたま、内山愚童に爆裂弾の作り方を聞かれ答えた…ただそれだけのことで大逆罪に問われ、終生近隣からの差別を受け続けた。眞に気の毒なことだ。
大逆事件の犠牲者・奥宮健之
生年:安政4.11.12(1857.12.27)
明治期の自由民権運動家。大逆事件に連座し処刑された。土佐国土佐郡布師田村(高知市)に,漢学者慥斎の3男として生まれた。板垣退助らが設立した立志社で自由民権思想を学んだ。明治14(1881)年自由党に入党,翌年には東京の人力車夫300人余りを集めて懇親会(車会党)を組織した。自由党のオルガナイザーとして活躍したが,17年自由党名古屋事件に連座,強盗教唆と警官殺害の罪で逮捕された。20年無期徒刑の判決を受け,北海道樺戸集治監に送られた。特赦により30年出獄し,移民事業を企てたりしたが境遇にめぐまれず,幸徳秋水に接近,幸徳から爆弾の製法を聞かれたことが大逆事件の罪となった。
奥宮は処刑当時53歳で、グループの中で最年長だったという。『奥宮健之全集』がある。

▲ 高知インターから医大病院に向けて走ると、途中に布師田という集落がある。
すぐに道路脇に布師田歴史研究会が建てた案内板が見えた。

▲ 看板を過ぎるとすぐに奥宮健之の生家跡があった。
後継者はなく、跡地は竹やぶに覆われていた。

▲ 生家跡の少し裏手の山に西山寺があるが、この寺も明治の廃仏毀釈で壊され、寺の跡地に小さな石仏だけが、ひっそりと鎮座していました。

▲ 寺の跡地をさらに上へ登ると、うっそうとした竹やぶが現れる。その竹藪の中に奥宮家の先祖墓が並んでいました。
お墓の管理、清掃は布師田歴史研究会有志が行っているようだが、墓迄の案内板がないと、初めての人には見つけられないだろう。
奥宮の墓は、東京・染井霊園にあるが、健之の骨が、ここに埋められている…との話もあるそうだ。
大逆事件犠牲者の5人の高知グループの内、幸徳秋水と坂本清馬を除き、この日に3人の墓を全て訪ねることが出来ました。
1日歩き回って疲れましたが、精神的には、長年の課題を一気に片づけた感があり、気持ちがすっきりとした1日でした。
幸徳秋水と坂本清馬の墓は、地元四万十市の正福寺にあります。
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先週金曜日(5日)車に同乗予定の1人が入院の為、3名が夜8時に四万十市を出発。
当初10時出発の予定でしたが、折からの台風襲来により南海フェリーが欠航。となると、いつ何時橋が通行止めになるかもしれないので、出発時刻を2時間早めました。
コースは運転者のMさんの心づもりでは、徳島から淡路経由だった。
私は、一番早く橋を通過できるのは瀬戸大橋コースだから、そちらに変更して…と要請。
それが正解だったのは、翌朝に証明されました。
11時前には瀬戸大橋に差し掛かりました。風はまだ大したことはない感じでしたが、早くも2輪車は通行規制がかけられていました。
まあ、早く出かけたため、時間はたっぷりあるので、途中でゆっくり休憩しながら、翌朝、当初通行予定していた明石大橋の近くを通過。電子掲示板には《通行止め》の表示が出ていました。
コース変更して正解でした。
ここからは阪神高速で大阪へ入り、臨海線で関空の横を通り、和歌山へ入りました。
運転は、ずっとMさん1人でしたので、2時間ほど休憩し、Mさんに仮眠をとってもらいました。
朝4時前に運転再開、田辺からは高速を降り、山沿いの道、中辺路を通りました。
台風のせいなのか雨が続いています。目的地は熊野本宮大社です。朝6時ころ着きました。
2050年の歴史を持つ神社とのことですが、本当なのか?との素朴な疑問が生じました。時代構成のあいまいな「古事記や日本書紀」形式の、いい加減な年代測定ではないのか?と無神論者の私は、不敬な発想を燃やしています。(笑)
不敬と言えば、そうそう、本来の目的地はここではないのです。この近くに「大逆事件」で冤罪に処せられた「成石兄弟」の墓があり、そこを訪れるのが本来の目的でした。ナビで墓を探しても分からないので、とりあえず近くの熊野本宮大社を目指したのです。
それから少し新宮方面へ向かうと、ちょっと迷いましたがありました。成石兄弟の墓の案内板が。
初めて墓を訪ねたい人は、バス停の成石を目標にした方が解りやすいでしょう。
案内板のすぐ近くにバス停があり、その前の石段を上ると、成石兄弟の墓があったのです。
(▼下の写真)


以下、本宮町「大逆事件」犠牲者の名誉回復を実現する会・趣意書…より
「大空のタコや故山の子思ふ」
これは1911年(明治44年)1月2日に東京監獄で、成石平四郎(28才)が一人娘の意知子を思い読んだ句である。また母の於里乃に宛てた手紙に
「行く先を海とさだめししづくかな」 との辞世の句が記されていた。
「大逆事件」は時の国家によって捏造されたものであることがはっきりしており、全くの犠牲者であります。さらに悲惨なことには平四郎の兄の勘三郎までもが一味に加わっていたとして、死刑の宣告を受けましたが、天皇の思し召しとして無期懲役に減刑され、明治・大正・昭和の18年間、獄中での過酷な生活を余儀なくされました。
仮釈放となって故郷に帰りましたが、わずか一年余りで亡くなりました。享年50歳。
「生き別れ弟死刑われ終身 長崎さして涙を呑みぬ」
「有る罪を償ふ事は怖れねど 無い罪迄も負ふぞかなしき」
・・・以上

▲右端は成石兄弟の墓碑。墓は左側のどれかだそうです。この時には気づきませんでした。
成石兄弟の墓から熊野川の川沿いに新宮市を目指します。
市内で朝ご飯を食べ、8時半ごろ熊野三山の一つ、速玉大社に着きました。


▲熊野三山の一つ、速玉大社 ▲鳥居には八咫烏が…


▲速玉大社の入り口にある「佐藤春夫記念館」 ▲そのすぐ近くに誠之助の実家跡が
ここでは今、今回の旅の本命…新宮市13人目の名誉市民…大石誠之助とはどんな人? の展示会が行われていました。
開館は9時から…しばし速玉大社を散策した後入館。
大逆事件の断罪があった明治44年(1911)3月、慶応大学生佐藤春夫(20)は、父の友人大石誠之助の死を悼む詩「愚者の死」を「スバル」に発表。
「千九百十一年一月二十三日 大石誠之助は殺されたり。
げに厳粛なる多数者の規約を 裏切る者は殺さるべきかな。
死を賭して遊戯を思ひ、 民俗の歴史を知らず、
日本人ならざる者 愚なる者は殺されたり。
「偽より出でし真実なり」と 絞首台上の一語その愚を極む。
われの郷里は紀州新宮。 彼の郷里もわれの町。
聞く、彼が郷里にして、わが郷里なる 紀州新宮の町は恐懼せりと。
うべさかしかる商人の町は欺かん、
---町民は慎めよ。 教師らは国の歴史を更にまた説けよ」
この日は、佐藤春夫の作品よりも、大石誠之助に関する資料が圧倒していました。


▲大石家の墓所 ▲誠之助の文字は堺利彦が書いた
大石家はキリスト教を信仰していたようだ。見晴らしの良い南谷墓地には、大石の他に同じ事件で無期刑となった峯尾節堂、高木顕明之墓もある。
大石家の墓所には十字架と『愛はいつまでも絶ゆることなし』の文字が刻まれていた。皮肉なことだ。大石誠之助の処刑後、その家族は国賊とののしられ石をもて郷里を追われたと言うのに。
誠之助の墓が、大逆事件で死刑となった12人では、最初に建てられたという。
この墓の大きさを参考に、四万十市の幸徳秋水の墓の大きさが決められたらしい。
ちなみに秋水の墓の文字は、小泉三申が書いたと言われている。なかなかの達筆である。

▲熊野三山の3つ目…熊野那智大社
大石の墓参りの後、まだ時間が余っていたので、予定になかった熊野那智大社を訪ねてみた。
ここの階段は何段あるのか知らないが、かなりありました。あまり鍛えていない足ががくがくなるほど登りました。
その上、雨が降っていて、景色も悪かった。有名な那智の大滝も撮りましたが雨にけぶって、お見せするほどのものではありませんでした。
昼食後、一旦本日のホテルを確認。
午後2時から、新宮市役所の横の児童館で、「第4回大逆事件サミット」が開催されました。
主催者挨拶や各種挨拶は紙面の都合により省略します。


▲講演「石川啄木と大逆事件」…伊藤和則氏 ▲四万十市秋水の会事務局長・田中さん
石川啄木については、世間の方は、ロマンチックな短歌の作者…くらいにしか知らない方が多いのではないかと思いますが、啄木君、世渡りはもう一つのようでしたが、なかなかしたたかな面も併せ持っていたようです。
何よりも凄いのは、あの大逆事件当時、ほとんどの知識人を気取る人たちが、なべて沈黙を守る中、果敢に「謀反論」をぶちかました徳富蘆花には、一歩二歩譲るとしても、啄木は1910年6月3日に大逆事件を知り、事件の被告弁護人となった平出修を訪ね、裁判に関する記録を閲覧、宮下太吉とその一派の爆裂弾事件を利用して、戦争推進する政府に批判運動を繰り広げる社会主義者たちを冤罪により一気に葬ろうとする国家的犯罪であることを看破していたのです。
啄木は大逆事件の後、1年数か月後に27歳の若さで病死していますから、事件を知ってからの22か月を病魔と闘いながら、事件に関する詩歌、評論を新聞雑誌への発表は困難と知りながらも作品に取り組み続けました。
その命と引き換えに残した事件関連作品は函館図書館に秘蔵されていた。その作品が戦後広く知れ渡り、大逆事件研究者たちに驚きと光明を与えた。
その中には、官憲が闇に葬っていた事件被告者たちの獄中日記なども出てきたと言う。
まあ話は、限がないほど長いのでこの辺りで省略します。(笑)
話の内容は結構面白いものであったが、講師の伊藤さんの話があっちに飛び、こっちに飛びするので、なかなか掴みにくかった。第一、私ら、前日から一睡もしてないのよねえ。
まあ、眠たかったこと…何回も居眠りこいてしまいました。(笑)
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今回のサミットの参加者は250人…過去最高の出席者数でした。
各界、地域からは、全国的にも知られた錚々たるメンバーの発言が相次ぎ、私たちには機会も回ってきません。(笑)
本当は、一つ一つの話をご紹介したいのですが、それこそ限りがありません。きれいさっぱり省略することにします。
夜の部=宴会には約110人が参加。こちらも大盛会でした。
その後は、2次会にも行かず、早速ホテルに入り、汗を落とし、速攻で寝てしまいました。
とにかく眠たかった。


▲自由・平等・博愛の木柱…除幕式 ▲約60人ほどが参加
翌日9時から、市役所近くにある《志を継ぐ碑》の横に自由・平等・博愛の木柱を建て除幕式が行われました。
写真の3人は左から山泉進、大岩川、二河の各氏。
この後、南谷墓地に眠る3人の犠牲者の墓を訪ねることになりましたが、私たちは前日に訪ねていたので、省略し、帰宅の途に就きました。
往きは和歌山から回りましたが、還りは伊勢方面を回り、新名神を通りました。
距離的には、こちらのコースが近かったようです。

▲なぜか? 孫ちんが登場
帰りは、同行者が減り、Mさんと2人になってしまったので、孫ちんたちの運動会を見るため大阪へ出かけていた私の連れ合いさんに連絡を取り、一緒に帰ることにして、娘の家まで車を回しました。
この日、下の孫ちんが誕生祝をしていて、昼過ぎに訪ねた私とMさんは、コーヒー1杯を飲ませてもらいました。
その中で、Mさんが、集会の話をしていたら、突然満4歳になる孫ちんが口を開きました。
その内容が凄すぎた…Mさんは思わず凍り付き、私も唖然としてしまいました。
孫ちん曰く…『おっちゃん、話うまいなあ。さすが大人は話が上手やなあ』
一瞬の後、大笑いとなってしまいました。
4歳なり立てでこの発言…俺の孫は、どんだけ天才?
なんて、思わず思いましたが、さあて、将来はどうなるのか?
大人になるころには、案外『普通の人』だったりしてねえ。(笑)
2時ごろ四万十に向けて出発。夜7時ごろに到着しました。
私も脳の老化も進み、話のまとめ方が下手になってきました。
このくらいで終わることにします。
最後に新宮市の名誉市民になった【大石誠之助】について報道した朝日新聞の『天声人語』を紹介しておきます。

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台風24号が過ぎ去り、ホッと一息つく間もなく、25号発生。猛烈な台風から強い台風へと、ランクは落ちてくれたが、九州に接近中。
我が家の池…太平洋も波が岩に打ちつけ、どど~んと波の音が轟き、白い波しぶきが上がっている。
そんな中、今夜から和歌山へ出かける準備をしている。予定していた南海フェリー(徳島~和歌山)は、今夜は欠航だそうだ。先ほど連絡があった。
同志3人と車で和歌山目指して走ることになった。まあ、物好きなことだ…とあきれる人もいるだろう。(笑)
さて、和歌山で何があるか? と言うと、実は6日と7日に大逆事件サミットが開かれるのだ。
大逆事件とはなんだ? と思う人も最近では多いだろう。語れば長くなるので詳細は省くが、明治維新は、諸君が思っているような「文明開化」いわゆる歴史の前進ではなかった。むしろ奈良時代の官位を復活したことに見られるように、時代の逆行を推し進めたのが明治維新なのである。
全ての民の自由と平等を奪い、国の将来を誤らせた元老・山懸有朋を中心とした薩長による時の政府は『絶対主義的君主制=天皇制』を樹立するため、1911年1月、幸徳秋水はじめ12名の罪なき人々を絞首刑にした。戦争国家を目指した政府が国民の声を封じるために、みせしめとするために行った完全な冤罪事件である。以後、この国は戦争の道へと突き進み、日米戦争の敗北まで、多大な国民の犠牲が続くのである。
この大逆事件サミットは、事件犠牲者たちの名誉回復と顕彰活動に取り組んでいる全国の団体・個人が一堂に会し、それぞれの活動報告と経験交流、今後の取り組みを議論する場であり、第1回は、2011年、幸徳秋水刑死百周年記念事業の一環として、中村で開かれた。
第2回は、2014年、秋水の盟友堺利彦の生誕地福岡県豊津(みやこ町)で。
第3回は、管野須賀子がキリスト教洗礼を受けた大阪の天満教会で開いた。
そして今回が第4回・和歌山。新宮での開催となったのだ。
新宮市議会は昨年12月、秋水と共に処刑された地元の大石誠之助をなんと、『名誉市民』として表彰する決議を行ったのである。そして今年1月に市長の決断で、処刑された日、1月24日に遺族に決定を伝え表彰状を手渡したそうである。
まさにグッドタイミングの新宮開催ではないか。
かの地の開催を祝うかのように、天候は荒れ気味ではあるが、各地から集まる同志たちと交流を図ってくるつもりだ。
帰ったら、また報告します。

▲我が家の池も、ずいぶん波が高くなってきた。台風接近中…

▲最近はあまり出かけないが、コスモスの花に出会うとホッとする

▲彼岸花は、文字通り彼岸の頃に咲く花…もう終わったね
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アベシンゾウは、籠池一人を悪人に仕立てて、何とか逃げ延びようと、汚い手を使い必死に足掻いていますが、足掻けば足掻くほど泥沼にはまるばかり…ここに至っては女房や関係者一同をまとめて証人喚問して、誰がウソをついているのか、そして闇の奥に隠れているものは何か?
全て、国民の前に明らかにしてもらいたいものだ。
その上で、アベシンゾウ、自ら啖呵を切ったように潔く議員と総理の職を辞してもらいたい。
シンゾウよ、それが男ぞ、それが人間の引き際たい。
引き際を失ったら、お前はもう人間ではない・・・・・
さて、そんな状況の中でも自公政権は、ふてぶてしくも厚かましくも、さらに戦時体制を前進させようと、国民の監視と政府への抵抗を封じるために…と、とんでもない大悪法《共謀罪》を閣議決定いたしました。
以下に、共謀罪に対する私の見解を地元の偉人・幸徳秋水に絡めて述べたいと思います。
絶対に許すな!
共謀罪と治安維持法、大逆罪
過去3回国民の強い反対で廃案になった《共謀罪》がまた国会に出されようとしています。共謀罪は内心の自由を奪い、集会結社の自由を脅かす憲法違反の悪法です。
治安維持法の再来か
共謀罪と言えば、1925年に成立し、国の進路を誤らせた大悪法《治安維持法》につながります。当初《国体の変革や私有財産否定を目的とする団体を処罰するもの》で、普通の人は関係ないと説明されましたが、実際は戦争に反対する人や政府の意に従わない人、社会主義に関する出版物を持っていただけでも逮捕されました。
適用範囲が勝手に拡大され、共産党や周辺の団体、無産政党、大本教、創価学会、天理教、キリスト教、学会、編集者など多くの団体が弾圧されました。
作家の小林多喜二や高知出身(中村にも住んでいた)の筒井泉吉、中土佐久礼の黒原善太郎などが警察で虐殺され、獄死した人も多数います。
幸徳秋水は共謀罪で冤罪で殺された
今から106年も昔…1911年社会主義者の幸徳秋水らが死刑になった《大逆事件》は、爆裂弾を作ったことが密告で発覚した明科(あけしな)事件に関わったのが数名で、ほとんどは事実も不明確な《共謀》を理由とされています。
12名が死刑、12名が無期懲役、2名が有期刑という大弾圧事件でした。何もしていないのに《共謀》を罪に問う…という恐ろしさの典型です。
この事件は、《大逆罪》という特異性もさることながら、これを機に全国の《主義者》を一網打尽に壊滅させようとする、時の元老・山縣有朋の強い意志の下、警察機関や裁判所に圧力をかけた結果、正しい捜査方法や裁判制度が破壊され、憲法、国家権力、天皇制等のあり方について、国が間違った方向へ進むきっかけを作り、将来へ大きな禍根を残した事件であった。
秋水刑死の年に《特別警察》が発足し、14年後には、今もなお悪名高き《治安維持法》が制定され、我が国の社会主義運動と民主主義は長い冬の時代へと向かうのである。
大逆事件の首謀者・平沼の言葉
大逆事件をでっち上げた検事側の首謀者・平沼騏一郎は論告で《被告人は無政府主義者にして、その信念を遂行するため大逆罪を謀る。動機は信念なり》と述べ、最後に松室検事総長が全員に死刑を求刑。翌日から弁護人の弁論があったが、裁判は1人の証人審問もさせず12月29日に結審した。
明けて1911年1月18日、判決が言い渡された。有期刑2名、24名が死刑であった。
翌日12名に無期懲役の特赦減刑があった。
判決の6日後には秋水含む11名が処刑され、翌日菅野須賀子が絞首台の露と散った。
この事件について、平沼は回顧録でこう記している。
《事件が本当であれば幸徳が首魁に違いない。まず幸徳を捕らえねばならない。この時私は、彼らの信念が犯罪の動機であると論じた。あの事件で私が深く注意したのは後にみっともない証拠は残したくないと考えたことである。》検察側に有罪の証拠は始めから無いわけだから、検事とグルになった大審院長は、これを逆手にとって被告側の無実を証明する証拠をすべて棄却したのである。
また大逆事件の検事側の捜査主任だった小山松吉が後に語っている。《幸徳ほどの男が、この事件に関係ないはずはないという推定の下に、証拠は極めて薄弱であったが、検挙することに決めた》
ここに《共謀罪》の恐ろしさが如実に示されています。
余談ですが、この後総理にまで上り詰めた平沼は、晩年を狂乱の果て、不幸な獄死を迎えることになる。
共謀罪は絶対に許してはならない!
今日の私達の社会の、犯罪についての基本的なルールは《行為を罰するのであって、思想や内心を罰してはならない》というものです。
ところが共謀罪が成立すると、秋水が殺されたように、2人以上で相談(共謀)するだけで処罰されてしまいます。
また判断基準の一つに《準備行為》というものがありますが、何が準備行為なのか不明です。なお、それを判断するのは警察がするので、日常のあらゆる行為が《準備行為》と判断される危険性があります。
また政府は《テロ集団などの「組織的な犯罪集団」を対象とするもので一般の市民は関係ない》と言っています。
しかし、テロとは何か…の定義もなく、「組織的な犯罪集団」を判断するのも警察や政府です。
普通の労働組合や町内会、あるいは私たち九条の会も、いつ、何時、取り締まりの対象になるか分かりません。
◎政府は、共謀罪がないと《国際組織犯罪防止条約》を締結できないと言っていますが、とんでもない大嘘です。
この条約は、本来テロ対策ではなく、マフィアなど国際経済犯罪対策のもので、条約締結に共謀罪など必要ないのです。
◎また政府の案では、「組織的な犯罪集団」の一人が自首すれば刑を減免すると言っています。
これはまさに《市民相互の監視と密告》を勧めるものです。
昨年改訂された憲法違反の《盗聴法》によって、警察による市民生活の監視と盗聴が強まっています。
共謀罪を許さない闘い…反対を叫ぶのは今です!
幸徳秋水の時代と大きく違うのは、平和憲法の存在です。憲法は個人の人権尊重と戦争の放棄を高らかに宣言しています。秋水は死刑前、弁護人の平出修に手紙を出しています。
その手紙には《事ここに至って今まさに何をか言わんやです。又言おうとしても言うべき自由がないのです。想うに100年の後、誰か私に代わって言ってくれるものがあるだろう~》と書いて後世の人への期待を漏らしていました。
今こそ時代の先駆者・秋水の期待に応えて、秋水の伝えたかったことを、大きく世間に広げようではありませんか。
いま私は、《秋水研究会》に参加して、秋水と共謀罪、秋水と憲法、秋水と社会主義…等々様々な分野で100年以上前の事件と現在の現象が不思議にコラボする世界を体験しています。
私の理解している範囲はまだ小さい。これからもさらに学習に励みたいものです。
人生いくつになっても勉強…ですなあ。(笑)
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また1週間ぶりの更新となってしまいました。
どうもねえ、正月の間にすっかり《ずぼら癖》が身についてしまったようです。(笑)
今週は全国的に寒波が襲来して、突然の雪に立ち往生した車も出たようですねえ。
南国高知でも山沿いでは白く変わった所もあったようです。
私の住む地域は、海の傍なので比較的暖かく、あまり降りませんでしたが、それでも月曜日は雪が舞い、このまま夜中に降り続けば、久しぶりに雪が積もるねえ…なんて言ってましたが、夜はあまり降らなかったようです。
そして火曜日は朝から日が射していました。
この日は午前中は卓球の練習、そして昼からは《幸徳秋水の刑死106周年の墓前祭》に参加しました。毎年この日は、なぜか雪が降り、寒い思いをします。
今年は雪なしだなあ…なんて思っていたら、墓前祭が始まると突然に雪が降り始めました。
《やっぱり秋水と雪は切り離せないねえ》なんて、参加者からのつぶやきが広がりました。(笑)

幸徳秋水の墓は正福寺…四万十市の商店街の近く、裁判所の裏手にあります。
入り口には、幸徳秋水を顕彰する会により、ご覧のような案内板が設置されています。

墓地の左手には、四万十市が設置した、看板も掲げられていて、良く目立ちます。

秋水の墓前には、テーブルが置かれ、お供え物もあります。
この後、参会者による献花が行われます。

墓前祭参加者は、今年は少し少なかったようですが、それでも60名ほどに達しました。
秋水の墓から奥の様子です。

こちらは、秋水の墓の前になります。

こちらは、秋水の墓の入り口側になります。

幸徳秋水を顕彰する会の久保会長の献花を皮切りに、秋水の縁者や運動関係者が次々と献花を行いました。
墓前では、何人かの挨拶もありましたが、私も記録できなかったので、それは省略させていただきます。(笑)

秋水の墓の隣には、秋水の師にあたる木戸明の墓もあります。
木戸明は、秋水の才能を惜しんで、秋水に社会主義運動をやめるように、諫めに来たこともあったようですが、師弟が理解しあえることはなかったようです。

午後2時から、場所を室内に移し、土佐史談会会員の別役(べっちゃく)佳代さんによる講演が行われました。演題は《田岡嶺雲と幸徳秋水》
田岡嶺雲は、高知市で秋水よりも1年早く生まれ(1870年)、秋水よりも1年遅く亡くなった人です。
2人の出会いは万朝報時代で、肝胆相照らし、お互いの著書に序文を書くなど、関係が続きましたが、大逆事件の冤罪で処刑された秋水は、広く世間に名を残し、20世紀の人物として取り上げられていますが、嶺雲は晩年、難病にかかり病死したためか、それほど世間に名を知られることなく、現在に至ったようです。
秋水は身の丈5尺(150cm)ほどの、小男だったようですが、その死生観は《死に所を得る》だったようでして、国家による不当な冤罪による処刑ではあったが、まさに本人の死生観にぴったりの死に様となり、その名は永遠に語り継がれることとなりました。
人生とは、まことに不思議なものですねえ。
余談ですが、秋水が刑死した時代と、今のアベ政治のありようが、何だかねえ…何となく似通っていませんかねえ。
秋水刑死の14年後に、あの悪名高き《治安維持法》が制定され、日本の社会主義運動や民主主義は冬の時代を迎えました。その結果どうなったか…皆さんご存知の通りです。
ただひたすらに《戦争による悲惨な破滅》へと日本は突き進んでいきました。
今、アベによる独裁体制が敷かれ、秘密保護法が制定され、戦争法が制定され、いま、さらに治安維持法にあたる《共謀罪》法案が制定されようとしています。
秋水は、100年以上も前に、戦争の悲惨さを訴え、非戦の訴えに命を懸けていました。
いま私たちは、この秋水に学ぶべき時ではないでしょうか。
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